文と萩物語

主な登場人物

人物紹介 詳細 人物紹介 詳細
杉文

天保14年(1843年)- 大正11年(1921年)

79歳

長門国萩松本村(萩市椿東)

山口県防府市桑山(大楽寺)

杉百合之助の四女。吉田松陰の妹。はじめ文(文子とも)と称し、のちに美和子と改称。安政4年(1857)、15歳のときに久坂玄瑞と結婚するも、元治元年(1864)禁門の変で夫が落命し、22歳の若さで寡婦となる。明治16年、41歳のときに群馬県令の任にあった素彦と再婚。群馬を去った後も貴族院議員などの公務で多忙な素彦を支えた。明治30年、素彦が明治天皇第十皇女貞宮の御養育主任に任じられると、貞宮に御付として仕えた。晩年は防府市で過ごした。

吉田松陰

天保元年(1830年)- 安政6年(1859年)

30歳

長門国萩松本村(萩市椿東)

東京都荒川区(回向院) 東京都世田谷区(松陰神社) 萩市椿東(護国山団子岩) 下関市上新地町(桜山神社)

藩士杉家に生まれ、6歳で山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎ、叔父玉木文之進の指導を受ける。19歳で兵学師範として独立し、藩校明倫館で本格的に教授を行う。21歳の時に藩から諸国修業を許され、全国を遊歴。24歳の嘉永6年(1853)浦賀に来航したペリーの黒船を目撃し、翌年、下田で米国への密航を図るが失敗、萩の野山獄に投じられる。安政3年3月から近隣の子弟に講義を開始し、松下村塾を事実上主宰。2年10ヵ月の短期間に、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文らを育てた。 安政5年、再び野山獄に投じられた。同6年、安政の大獄により江戸の伝馬町獄へ送られ、まもなく処刑された。

楫取素彦

文政12年(1829)- 大正元年(1912)

84歳

長門国萩(萩市)

防府市桑山(大楽寺)

藩医松島家に生まれ、儒者小田村家の養子となる。藩校明倫館に学び、江戸に出て佐藤一斎や安積艮斎に師事、帰国後は明倫館で指導する。吉田松陰の妹寿(寿子)と結婚し、松陰の投獄後は松下村塾でも教育にあたった。慶応元年(1865)長州征討に際し、宍戸たまき(山県半蔵)とともに広島に赴いて幕府側との交渉にあたり、翌年、長州戦争(四境戦争)直前には広島に一時拘留された。慶応3年、藩命により楫取素彦と改名した。明治維新後は新政府に出仕し、地方官を経て、明治9年(1876)群馬県が新たに発足したことにより、その初代県令(現在の県知事)となる。約10年間の在任中には、県庁を高崎から前橋に移転して伝統産業の養蚕・製糸業を奨励し、また教育にも力を入れるなど、草創期の群馬県政に大きく貢献した。明治14年、妻寿を失ない、明治16年、松陰のもう一人の妹文と再婚した。その後、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員などを歴任した。

松門四天王

久坂玄瑞

天保11年(1840年)- 元治元年(1864年)

25歳

長門国萩平安古(萩市)

萩市椿東(護国山団子岩) 京都市東山区(霊山墓地) 山口市秋穂二島(朝日山護国神社)

藩医の家に生まれ、藩校明倫館で学ぶ。安政3年(1856)、17歳で九州遊歴後、吉田松陰に接近し入門。松下村塾で高杉晋作とともに「竜虎」「双璧」と称せられる。薩摩・土佐・水戸の同志と尊王攘夷運動を推進。文久元年12月には晋作・井上馨(聞多)らと英国公使館を焼き打ちするなど、攘夷の急先鋒として活動。文久3年5月から浪士を率い関門海峡で外国艦砲撃を指揮。つづいて京都で大和行幸、攘夷親征を画策したが、孝明天皇の怒りを買い、同年8月18日の政変で長州藩は京都での地位を失い、京都から追放。失地回復を目指して奔走するが、元治元年(1864)7月19日、禁門の変で敗れ、寺島忠三郎と共に鷹司邸において自刃し果てた。

高杉晋作

天保10年(1839年)- 慶応3年(1867年)

29歳

長門国萩菊屋横町(萩市)

下関市吉田(東行庵) 下関市上新地町(桜山神社) 萩市椿東(護国山団子岩) 京都市東山区(霊山墓地)

諱は春風。藩校明倫館に学び、安政元年(1854)には江戸で黒船騒動を体験。安政4年、吉田松陰が主宰する松下村塾に入り頭角を表す。文久2年に藩命により上海渡航し、アヘン戦争後、欧米列強の支配を受ける中国の実情を見て危機感を強め帰国。12月には久坂らとイギリス公使館を焼き打ちした。しかし自らの富国強兵策が藩に受け入れられぬと知るや文久3年3月、東行と号し萩で隠棲する。ところが同年5月、藩が関門海峡で攘夷を断行するや起用され、下関防御を任されて6月に奇兵隊を結成。軍事力不足を補うため、庶民を動員した点が画期的だった。藩政府を打倒すべく元治元年(1864)12月、遊撃隊などを率いて下関で挙兵。慶応2年(1866)、再び攻め寄せた長州征伐軍撃退の指揮を小倉口で執るも、下関林家離れで病死。

吉田稔麿

天保12年(1841年)- 元治元年(1864年)

24歳

長門国萩松本村(萩市椿東)

萩市椿東(護国山団子岩) 山口市秋穂二島(朝日山護国神社) 京都市左京区(三縁寺) 京都市東山区(霊山墓地)

萩藩の下級武士吉田清内の長男として松本村新道に生まれる。嘉永6年(1853)、江戸に赴き、アメリカのペリー来航騒ぎを体験。列強の外圧を痛感。安政3年11月から自宅近くに住む吉田松陰に師事して影響を受けた。しかし同5年12月、松陰に投獄の命が下るや、他の門下生とともに藩重役宅に押しかけたため謹慎に処される。万延元年(1860)9月、脱藩して江戸に赴き、幕府旗本妻木田宮の使用人となり、幕府との間にパイプを築く。文久2年(1862)7月、藩主世子より帰参を許され、尊王攘夷運動に奔走。同年8月18日の政変で、萩藩は京都から追放されたため、失地回復を目指し、幕府側との交渉を進めるも、元治元年(1864)6月5日、池田屋事変のさい闘死した。

入江九一

天保8年(1837年)- 元治元年(1864年)

28歳

長門国萩土原村(萩市)

萩市北古萩町(長寿寺) 山口市秋穂二島(朝日山護国神社) 下関市上新地町(桜山神社) 京都市東山区(霊山墓地) 京都市北区(上善寺)

萩藩の下級武士の家に生まれる。江戸藩邸の下働きをしながら学問に励み、松下村塾にも学び、吉田松陰に深く傾倒した。伏見要駕策では松陰の指示を受け、尊攘運動に奔走するも、安政6年(1859)、捕らえられ、萩の岩倉獄に投ぜられた。その後釈放され、藩論が攘夷に定まるや、文久3年(1863)1月、士雇に昇格する。下関に陣を構え、久坂玄瑞らと関門海峡を通航する外国船を砲撃して気炎を上げ、同年6月には高杉晋作を補佐して、奇兵隊を結成。しかし同年8月18日の政変により、萩藩が京都での地位を失うと、失地回復のため奔走。元治元年(1864)7月、禁門の変で重傷を負い自決した。後世、高杉・久坂・吉田稔麿とともに「松門四天王」のひとりに数えられる。

伊藤博文

天保12年(1841年)- 明治42年(1909年)

69歳

周防国熊毛郡束荷村(光市)

東京都品川区西大井

周防国熊毛郡束荷村(山口県光市)の農家に生まれ、父十蔵が萩の下級武士を継いだため伊藤姓を名乗る。来原良蔵や吉田松陰に師事。文久3年(1863)に井上馨(聞多)らとロンドンに秘密留学。翌元治元年(1864)に帰国し、4カ国連合艦隊下関砲撃の戦後処理に奔走。明治元年(1868)5月に兵庫県初代知事となった。同4年には岩倉使節団の副使として欧米12カ国を視察。明治11年、欧州へ憲法調査に赴き、天皇制の権力機構を確立するため、主にドイツの専制的立憲君主制に学ぶ。18年、初代総理大臣となった(計4回組閣)。憲法草案を練り、22年にこれを欽定憲法として発布。日露戦争後、韓国が日本の保護国となるや、38年、初代韓国統監として京城(ソウル)に赴き、韓国併合の基礎を作るも、ハルビン駅頭で暗殺される。

桂小五郎(木戸孝允)

天保4年(1833年)- 明治10年(1877年)

45歳

長門国萩江戸屋横町(萩市)

京都市東山区(霊山墓地)

藩医和田家に生まれ、藩士桂家の養子となる。嘉永2年(1849)藩校明倫館で吉田松陰に兵学を学ぶ。のちに藩命により京都へ赴き、尊王攘夷運動に奔走するが、元治元年(1864)禁門の変後は但馬国出石(兵庫県豊岡市)に潜伏した。慶応元年(1865)藩に帰り、藩政改革を推進、藩命により木戸と改姓。慶応2年、坂本龍馬の仲介により京都で西郷隆盛と薩長同盟を締結した。  明治新政府では参与、総裁局顧問、参議を歴任。版籍奉還や廃藩置県などを推進して中央集権国家の樹立に貢献する。明治4年(1871)岩倉使節団の全権副使として欧米を視察。明治8年、漸次立憲制を布くという方針で大久保利通と合意し参議に復帰。まもなく内閣顧問となったが、西南戦争中に病死した。

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