明治45年(1912)初夏に、田中義一に与えた書。この時、田中は陸軍軍務局長で、二個師団増設問題で西園寺公望内閣と対決していた。この書は、初代朝鮮総督に就任していた寺内の田中へのエールとも受け取れる。
吉田松陰の実兄杉民治の養嗣子杉相次郎に宛てた書簡。杉相次郎は山口県の役人などをつとめた後、旧藩主毛利家に家令として仕えた。杉相次郎の病気による家令辞任に対し、その健康を気遣っている。
大正14年(1925)田中は政友会総裁となり、犬養が率いる革新倶楽部と合同した。犬養は、昭和4年(1929)田中が病没した跡を受けて政友会総裁となり、昭和6年首相に就任した。犬養の賛文は、田中の人となりを称えている。
論語の一節で、君子たる者の九つの心得を記す。この書は、田中が総理大臣に就任する前年の大正15年(1926)初秋に書かれたもので、君子たるべき者の心得を田中自身に重ね合わせたのかもしれない。
玉江浦の青年宿「角屋組」に与えた書額。青年団の組織化に尽力した田中は、青年団の模範となる玉江浦の青年宿をこよなく愛したびたび訪れ、青年宿の組織を高く評価していた。
旧田万川町役場に掲げてあった書額。「日月、私照無し」。日月は私に照らすことはない、つまり恩を施すことの公平な喩え。
「南山」とは、中国の終南山の異称。「南山の寿」とは、終南山が崩れないのと同じように、その人の事業が永久であること。転じて、長命を祝うことば。
桂は大正2年(1913)10月10日に死去したが、遺言によって遺体は解剖に付せられた。その結果、桂の脳の重量は1,600g(当時の日本人男子の平均1,356g)で、ビスマルクより200g軽く、カントと同量であったという。当時、桂は「大頭」として知られていた。
大正11年(1922)3月28日、田中が上海で爆弾テロに遭遇した際にかぶっていた帽子。当日の日記に「爆弾の破裂せざりしは誠に余の幸福なり。天佑なり。唯初発なりしか最後なりしか、余の帽子に一発命中四孔を穿てり、併し是れは当分秘する考えなり」と記している。田中の記述どおり、帽子の上部に銃撃を受けた穴が4箇所開いている。