【第13回】 敬身堂跡と中村雪樹旧宅跡



     江向の雑賀下り筋と十日市筋とが交わる角に、「敬身堂跡」の石碑が建っています。雑賀下り筋に沿って、150メートルばかり北に向かって流れていた藍場川は、この地点で西に向きを変えて流れます。幕末期の嘉永年間(1848〜53)に描かれた萩城下町絵図を見ると、ここの角の部分の川幅が広くなっていて、川舟の向きを変える舟回しとして利用されていたことが分かります。また、同絵図によると、この角には日章舎という建物があったことが記されています。
     日章舎は、宝暦年間(1751〜63)に心学修業の学校として、新堀(東田町・西田町の南側の新堀川に沿った辺り)に設置されました。その後、日章舎は江向の藍場川そばのこの地点に移され、いつのころにか名称も敬身堂と改められたものと思われます。心学とは、京都の石田梅岩によって唱えられた庶民のための教学のことで、儒教・仏教・神道・道教の説を取り入れて、日常の身近な生活の中での道徳の実践を平易に説いたものです。幕末期には萩でも心学が盛んになり、敬身堂は士分の者の子弟が通った藩校明倫館とは違い、陪臣・足軽・中間・町民・農民などの身分の者が通っていました。
     敬身堂から藍場川に沿ってしばらく歩くと、徳隣寺裏手の藍場川のそばに「中村雪樹旧宅地」の石碑が建っています。中村雪樹は天保2年(1831)に生まれ、藩校明倫館で学び、吉田松陰などに師事しました。代官など萩藩の役職を歴任し、明治維新後は山口県の役人になりました。山口県を退職後、初代の明倫小学校校長などをつとめ、明治22年(1889)の市制町村制施行に伴い、初代の萩町長に就任しました。
     中村雪樹旧宅地の前の通りは、藍場筋と呼ばれていました。この通りの西側角に、藍場と呼ばれた藍玉座(藍色の染料となる藍玉を生産)が置かれたことから、名付けられたものと思われます。

    (市報はぎ1997年4月15日号掲載)