【第15回】 製蝋板場跡と水車筋



     藍場川は、藍玉座跡の所から北に向きを変えて流れます。この流れに沿って南北に走る通りは、水車筋と呼ばれています。「八江萩名所図画」によると、この道筋の傍らに水車が設けられていたので、水車筋と称したとあります。
     実は、この水車は萩藩が経営していた製蝋板場に設けられていたものです。製蝋板場とは、蝋燭や鬢付油の原料となる蝋を製造したところで、藍場川が開削された延享元年(1774)に、藍場川のすぐそばに設置されました。蝋の製造・取引も、藍玉と同じように専売制が施行され、民間の自由な製造・取引が禁止されました。藍玉座とともに、藩の専売工場というべき施設が、ほぼ同時期に藍場川沿いに設置されたのです。江戸時代には蝋燭は灯火として、鬢付油は丁髷などの髪形を整えるのに用いられ、この二つの品物は、当時の人々にとってはなくてはならない日常生活の必需品でした。そのため、蝋の取引は確実で大きい利益が得られたので、専売制の対象とされたのです。
     江戸時代には、蝋の原料として櫨の実が多く用いられました。特に、椿東分(現在、萩市椿東)をはじめ萩近辺は、瀬戸内側と比べて櫨の実の生産高が多く、重要な生産地となっていました。蝋をつくるには、まず櫨の実を臼でつき粉にするのですが、この製造工程で水車が利用されたのです。つまり藍場川の水流によって、水車を動かし櫨の実をついたのでした。当時の製蝋板場の図面を見ますと、全部で16の臼を一つの水車でついていたことが分かります。このように、藍場川は水車を動かす動力源として、また原料や製品を運搬する舟路として活用されたのです。
     ところで、この水車は明治の終わりごろまであったそうですが、大正元年(1912)にその跡に時報を知らせる午砲が設置されました。発射音とともに炸薬を充填した紙屑が散乱し、萩の人々は午砲を「ドン」の愛称で親しんだといいます。午砲は15年ほど続き、大正15年からサイレンの時報にかわったということです。
    (市報はぎ1997年6月15日号掲載)