棹秤は物の質量を計る用具で、萩地方では、これを棒秤・チギ・チキリ等と呼ぶ。 秤が使用され始めるのは奈良時代のことで、全国的に棹秤が統一され、貫・匁・厘・毛の重さの単位が普及定着するのは江戸時代の初め頃とされている。ちなみに一匁は銭一文の重さで、銭一千文を縄で貫いた重さが一貫という単位になったいう。 江戸幕府は、経済の安定のために、江戸の守随家と京都の神家とに、棹秤を製造・販売・修理する権利の独占を認めていた。秤改めといって定期的に集められた各地方の棹秤は、両家の出店や名代によって検査されていた。正常な秤には、改・極・定等の焼き印が押され、問題の有る秤は補修されたり破棄されたりした。 かつて経済活動が盛んだった萩には、幕末まで神家の出店があったとされている。西国に設けられた一五ヶ所の出店の一つで、そのためか、現在も「御秤屋神善四郎」と刻印された古い棹秤を多く見ることができる。 |