相 島


     萩市の沖合14.2キロに浮かぶ相島は面積2.43平方キロメートル、平成5年9月31日現在の人口355人(男176、女179)、世帯数99。

    概 要
     いつ頃から人が住み始めたのか定かではないが、平家に関する伝説が多いことなどから、おそらく平安時代末期頃から人が住み始めたのではないかと推測されている。
     また、この島の旧庄屋中村家に伝わっている「略記文」によると、寿永元年(1182)正月4日に、大日如来をはじめ多くの仏像が島の西側に流れついたので、島の人達が堂舎(大日堂)を建立して安置したことが記されている。
     さらに永正5年(1508)頃と推定される大井八幡宮の御済納米銭役人文書に「愛島」として献納が行われていたことが記され、また室町時代末期には、阿武郡20郷と並んで農作物、農製品や人役などを同神社に献納していたことがうかがえる。
     その後の、慶安年中(1648〜1652)頃には、百姓軒数は門男ともに38軒であり元文5年(1740)分の「地下上申」では、総石高152石余、戸数57軒で人口244人、牛110頭等であったことが記されている。
     なお、この島には寛永(1624〜1644)頃から大島と同じく藩の「航究役」が置かれ、萩沖を出入りする船の監視と取締りに当たっていたが、幕末には黒船渡来の見張役として相島遠見役が置かれており、「郡中大略」によれば、萩城の海上防備としての御番所(大砲台場、?硝蔵など)も置かれていた。

    樹 林
     樹林の大部分がアカマツ林で、一部にスギや広葉樹が見られる程度である。
    市報はぎ平成5年(1993)10月15日号掲載 (山口県の島々より抜すい)

    民 話
    ◆親棄山
     昔、とんとんあったげな、70の婆さんが山に捨てられたそい。自分が捨てられ死なわん(死ぬ)から泥いぐり回しよったら、九州芋が出てきたそいの。婆さんは「この芋を持っていね(帰れ)」と息子に言いましたら、息子は「こねえなええ食べ物が年寄りのいぐり回しよった土から出て来たそい、年寄りは捨てられんを」そう言うて、息子は婆さんを連れて帰ったそいの。
    ◆鬼と菖蒲
     昔、男の子が山道を行きよったら、鬼に追われたそいね。男の子は懸命に逃げますけどだんだん鬼が近づいてくるそいの、男の子は自分の代りにほたる物が無いから困ったそいの。仕方なあから、道にはえとる菖蒲ガヤとヨモギをほうたり投げましたいの、そいだら鬼は追うて来んようになったそいの。そいで5月の5日にや魔よけのしるしに、菖蒲ガヤとヨモギを家の軒へ飾るそいの。
     このほかにも、数多くの民話がある。

    農作物
     島内で生産される主なものは、すいか、たばこ、馬鈴薯、甘藷、玉葱などであるが、特に「相島すいか」は、評判が良く、広く各地に出荷されている。

    水産物
     めじ、あじ、かさご、さざえなどが主に水揚げされている。

    生活習慣
     相島の正月は、天理教と仏教(浄土宗)に分かれ、それぞれ1日と4日の日に行事が行われる。
     天理教では、お堂に午前中お参りし、お勤めが終わった後、御神楽を舞う。衣装は黒紋付きで、日の丸の扇子を持ち、鉦や太鼓を打ち鳴らし、6人で踊る。この踊り手は、本山で資格をとった者のみが踊る。
     仏教では、大日堂に参拝し、御神酒を飲む。
    市報はぎ平成5年(1993)11月15日号掲載 (山口県の島々より抜すい)