尾 島


     萩市の沖合10.5キロに浮かぶ尾島は面積0.34平方キロメートルの無人島です。

    由 来
     元文5年(1740)の「地下上申」には、戸数9軒、人口47人で、牛16頭、船8そう(萩への通船3、磯船5)で畑の耕作と漁業により生活していたことが伺える。
    安政2年(1855)の「郡中大略」では、戸数9軒、人口74人であったことが記されている。その後、明治15年の阿武見島郡治要覧には、9軒、82人が居住していた。
     昭和30年には、10世帯、103人が居住し、「葉タバコ」の栽培により生計を営んでいた。しかし、昭和40年3月萩市学校寄宿舎が浜崎町に設置され、小・中学校の生徒は島から出て、市内の学校に通学するようになった。そのため、昭和47年1月には、6世帯、人口26人に減少した。また、葉タバコの生産が減少し、本土への就職者が増加した。
     こうした現象の急速な広がりにより、昭和47年10月全世帯が本土に集団移住し、以後無人島となった。無人島となった後、島民と萩市の間で、島の民有地は指名競争入札の方法により売買することに決定し、昭和48年8月大阪の企業が落札購入した。


    肥 島


     萩市の沖合10.5キロに浮かぶ肥島は面積0.25平方キロメートルの無人島です。

    由 来
     元文5年(1740)の「地下上申」には、「干島」と記されており、島には人家はなく、羽島の人が畑を耕作していたことが伺える。
    安政2年(1855)の「郡中大略」は、浜崎から肥島へ2里半と記すだけである。
    明治15年(1882)には8軒、38人の島民が居住していたことが、阿武見島郡治要覧に見られる。昭和30年の国勢調査では1世帯、3人であったが、昭和35年の国勢調査では無人島となった。
     その後、昭和40年の国勢調査時には1世帯、1人が居住していたが、昭和43年の人口調査では再び無人島となり、引き続き現在も無人島である。
    市報はぎ平成6年(1994)2月15日号掲載 (山口県の島々より抜すい)