菊ヶ浜御台場之碑

(今魚店町)
  


     文久三年(一八六三)五月十日の攘夷決行の日、萩藩の下関砲台は関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えたが、期待に反して大損害を受けた。その報が萩に伝えられると、住民の間で城下を自らの手で守ろうとする機運がにわかに高まり、菊ヶ浜に土塁の構築を請願する動きが起こった。藩はこれに応じて土塁の築造を命じた。土塁は高さ五メートル、下部幅十八メートル、上部幅九メートル、長さ百メートルないし三百メートルの土塁が合計六か所完成した。通称「女台場」といわれているが、女性だけの力でできたものではない。武士の妻や奥女中までが派手な装いで土持ちをした姿が、印象的に語り伝えられたためであろう。現在は西端の三か所の土塁が、比較的よく旧態を保っている。
     その一か所の頂上に、「菊ヶ濱御臺場之碑」と刻された高さ一七〇センチメートル、幅一〇五センチメートルの石碑が建てられている。裏面には台場の由来と、昭和十六年(一九四一)十二月九日、萩市連合婦人会と大日本国防婦人会萩支部によって建てられたことが記されている。