野山獄十有一烈士之碑/吉田松陰詩碑/金子重輔君絶命之処碑

(今古萩町 野山獄跡・岩倉獄跡)
  

    野山獄十有一烈士之碑

    吉田松陰詩碑

    金子重輔君絶命之処碑

     萩市の中央、市街地の中に南北に通る道路を挟んで西に野山獄、東に岩倉獄と二か所の藩の牢獄跡がある。野山獄は士分の者を収容する上牢、岩倉獄は庶民を収容する下牢であった。
     野山獄は維新前後の文久・元治年間(一八六一〜六四)、藩内の抗争に際して高杉晋作・波多野金吾(広沢真臣)はじめ多くの志士が?がれた。また正義派に属する十一烈士の外にも、俗論派の坪井九右衛門や椋梨藤太など多数の人が処刑された所でもあり、維新史を語る上で重要な遺跡といえる。
     野山獄跡には現在当時のものは何一つ残ってないが、敷地の一部を保存して記念碑が建てられ、維新当時の萩藩の波乱に富んだ姿を偲ぶことができる。
     獄跡正面に、高さ二一五センチメートル、幅一三五センチメートルの自然石の石碑が大正十三年(一九二四)に建てられた。上部には、毛利元昭の篆額で「野山獄十有弌烈士之碑」と書かれ、元治元年(一八六四)正義派の十一名が禁門の変の責任を責められ、俗論派によって処刑された追悼碑として十一名の功績が原田貞男の撰、安藤紀一の書によって刻されている。
     向かって右手奥には「十一烈士絶命之處」の碑があり、左手奥には野山獄ゆかりの人々の慰霊のため、吉田松陰筆蹟の文字を組み合わせて作った「合霊碑」の石碑が昭和四十九年(一九七四)十一月に、今古萩町町内会によって建てられている。
     岩倉獄には正面向かって右手に、萩出身の首相田中義一の書になる高さ一三〇センチメートル、幅九五センチメートルの「金子重輔君絶命之處」の石碑が、大正十三年(一九二四)九月、吉田潤一によって建てられた。裏面には、同人による撰文も刻されている。同じく正面左手には、吉田松陰の詠んだ「獄中聞渋木生赴」の高さ一一〇センチメートル、幅一五〇センチメートルの碑が、昭和八年(一九三三)八月に吉田潤一によって建てられた。
     吉田松陰は伊豆国下田で海外渡航に失敗した後、安政元年(一八五四)十月野山獄に、その時の従者金子重輔は岩倉獄にそれぞれ投ぜられた。松陰は一年余りの在獄生活中、仲間の囚人を教化するという前例のない教育活動を行って出獄したが、金子重輔は入獄前から重い病にかかり、入獄後も病は悪化する一方で、入牢から七十日余り後の安政二年正月十一日、二十五歳を一期として不帰の客となった。予期したことではあったが、その死に対して松陰は非常に悲しみ、種々の形で彼の英霊を慰めたのであった。