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第2回 明治維新はこの家族から始まった・・・

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年1月29日更新

  松陰を育てた杉家の家族たち。幕末の動乱が激しさを増すなか、松陰の家族たちもさまざまな困難に巻き込まれますが、文をはじめとした家族の強い絆で乗り越えていきます。

松陰や文の母 杉滝

 文は、萩藩士杉百合之助と滝夫妻の四女です。
 生母である滝は、文化4年(1807)に、毛利志摩(藩主毛利一門の阿川毛利氏)の家臣村田右中の三女として生まれました。20歳のとき藩士児玉太兵衛の養女として、藩士杉百合之助と結婚、梅太郎や松陰、文ら三男四女をもうけました。
 性格は温容・親切で勤倹につとめ、馬を使って農耕に従事したと伝えられています。また、出牢した松陰が松下村塾を開くと、塾生たちの食事などの世話をしたり、自身でも講義を聞いていたといわれています。
 幕末・維新という時代にあって家族たちを支え、明治23年(1890)に84歳で亡くなります。

母滝と明るい家庭

杉滝 文の証言によると、滝は松陰ら男子の躾にはさほどうるさくなかったようです。しかし女子には、忍耐強くなるようにと厳しく指導したそうです。また、忙しいときでも女子には学問の時間を与え、文字が読めないと先々困るからといって手習い(習字)をさせられたと述べています。
 勤勉・好学の滝はまた、陽気な性格の持ち主でもありました。梅太郎の妻亀子の証言では、家族の洗濯物が多くて困っているときに蚊帳が破れ、嘆いている亀子をみた滝は、「やぶれかや程目出度ものはなし、つる(吊ると鶴をかける)とかめ(蚊奴と亀をかける)が舞ひ下る」といい、家中を笑わせたと伝わっています。ユーモアのセンスが光る逸話です。
 杉家は苦しい家計であったといわれていますが、母滝を中心に、温かく、楽しい家庭が築かれていたに違いありません。

杉家は学問好きの一家

 千代の談話によると、滝は家事を済ませると「サア大さんのお話が始まった」といって、家族みんなを連れて真っ先に話を聞きに行ったといわれています。この「大さん」は、吉田大次郎すなわち松陰を指しています。
 また、松陰は松下村塾に女子の門弟を迎えたという形跡はないですが、近所に住む少女たち、たとえば吉田稔麿の妹房などは滝に可愛がられ、杉家の女子たちと仲睦まじく遊びながら、時には松陰から女大学や百人一首などの講義を聞くこともあったといわれています。
 このようなことからも、文は好学の家族に囲まれて育ったと思われます。こうした環境のもとに置かれていたため、少女文の姿が塾生たちの中に交じっていたとしても何ら不自然ではないでしょう。

父 杉百合之助

 名を常道、文化元年(1804)杉
七兵衛(常徳)の長男として生まれ、天保の藩政改革で百人中間頭兼盗賊改方となります。禄高26石と薄給のため、畑仕事をして家族を養い、質素に努めたといわれています。
 自らも読書好き、子どもの教育には熱心で、耕作をしながら松陰らに四書五経の素読を授けたそうです。また、謹慎中だった松陰に松下村塾を開くように勧めたと伝わります。
 明治を迎えることなく、慶応元年(1865)に62歳で亡くなります。