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第4回 松陰の愛弟子 久坂玄瑞との結婚と死別

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年1月29日更新

 文と松陰が暮らす杉家に、安政3年(1856)6月、久坂玄瑞が姿を現します。そして、安政4年12月5日、松陰は愛弟子となった玄瑞と文を結婚させます。このとき文は15歳、玄瑞は18歳という若さでした。

久坂玄瑞と兄松陰の出会い

 玄瑞は、天保11年(1840)、藩医久坂良迪の三男として、平安古に生まれます。幼少時に吉松淳蔵の私塾に学び、のちに藩校明倫館で学びます。母、兄、父を続けて亡くし、15歳で孤独の身となります。
 17歳で九州に遊学した際、熊本で宮部鼎蔵から松陰の人となりをきいたことがきっかけで、帰国後、松陰との三度にわたる手紙での応酬を経て入門。やがて松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛され、塾生の中心人物へと成長します。

玄瑞と文 若き2人の結婚

久坂玄瑞 杉家の側にある松下村塾で学んでいた玄瑞と文は、お互いをよく知っていたと思われます。
 玄瑞の才に惚れこんだ松陰は、塾生の中谷正亮の推薦もあって、玄瑞と文との結婚を画策します。
 玄瑞が文の容姿を気に入らず乗り気ではなかったが、中谷に妻を顔で選ぶのかと諭され、しぶしぶ受け容れたという逸話も伝わっています。
 前回、嫁ぐ文への松陰のはなむけの言葉を紹介しましたが、それを読むだけでも松陰の妹と弟子への愛情がうかがえます。玄瑞は家族を早くに亡くしていたこともあり、杉家に同居し松陰を助けました。
 しかし、玄瑞は安政5年2月から翌年2月まで江戸や京都に遊学したため、文と過ごした新婚生活はわずか2カ月ほどとなりました。さらに、萩に戻ると西洋学所(博習堂)の官費生として寄宿生活を始めたため、文と一緒に暮らすことはありませんでした。
 安政6年10月、松陰の刑死後、玄瑞は師の遺志を受け継ぎ、一時は塾を主宰しますが、尊王攘夷運動の激化により、その急先鋒として京都や江戸を駆け巡ります。
 このような状況では、文が玄瑞と満足な夫婦生活を送れたはずはありません。しかし、玄瑞は旅先からこまめに文に近況などの手紙を送り、喜怒哀楽をストレートに伝えています。この手紙の一部は、文が再婚した楫取家に、「涙袖帖」として大切に保存されています。

わずか6年余りの結婚生活

 玄瑞は文久3年5月、下関で外国船砲撃を指揮します。それからまもなく、楫取素彦と文の姉寿夫妻の次男道明(久米次郎)を養子に迎え、自身は義助と改名します。しかし、同年8月18日の政変で京都から追放され、翌元治元年(1864)7月、禁門の変に敗れ、25歳で自刃します。
 こうして文は22歳の若さで寡婦となります。同年9月、道明が家督を継ぐと、文は彼を支えて久坂家の復興に努めます。その後、慶応元年(18
65)9月、文は毛利元徳の夫人安子に仕えます。幕府に処刑された松陰の妹で、萩藩が「朝敵」と呼ばれる原因を作った玄瑞の妻でもあるという、微妙な立場にある彼女が藩主の身辺に近づけたということは、非常に大きな意味をもちます。
 なお、明治2年(1869)11月、藩は、京都で懇意にしていた女性との間に生まれた玄瑞の遺児、秀次郎を認知。文は、秀次郎を久坂家に迎えますが、道明は明治12年に久坂家を離れ、楫取家の家督を継ぎます。