ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
ホーム > 文と萩物語 大河ドラマ「花燃ゆ」を楽しむ > 第7回 男爵夫人としての日々、そして安住の地 防府へ

第7回 男爵夫人としての日々、そして安住の地 防府へ

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年1月29日更新

 群馬県令を務めた兄松陰の盟友、楫取素彦のもとに再嫁した文(美和子)。「難治県」といわれた群馬を、日本屈指の養蚕県・教育県に育てあげ、名県令とまで称せられた素彦を、文は最後まで支えます。

名県令素彦 群馬を去る

 文と再婚した明治16年(1883)5月、55歳の素彦は年齢などを理由に群馬県令の辞職願いを提出します。前橋では退任を惜しまれ、留任運動も起こりました。
 しかし明治17年7月、素彦は元老院議官に任じられ、県令を退任。8月、後任への引き継ぎのため前橋を訪れた際、前橋の有志が、素彦の提唱で建築された迎賓館臨江閣で送別会を開きます。この時、有志らは素彦が産業の興起と学事の奨励に実績を上げたことを強調し、「難治」である群馬を「至誠」をもって治めた素彦に深く感激しているとの送別の辞を贈っています。
 熊谷県権令として赴任して以来、約11年にわたり、至誠を信条として群馬の県政にあたった素彦が帰京する際には、前橋では数千人が列をなし別れを惜しんだと伝えられます。

明治天皇皇女の養育を担当

明治32年2月に貞宮御殿で撮影された素彦と文 元老院議官となった素彦は、文とともに群馬から東京に移り住みます。明治19年1月、高等法院陪席裁判官に任じられ、明治20年5月には華族に列し男爵を授けられます。明治23年7月に貴族院議員に当選、以降複数回連続当選します。文は華族の妻として多忙な後半生を送ります。
 この頃から素彦は、山口県、特に防府との関係を深めます。明治25年、防府三田尻の私立幼稚園(現鞠生幼稚園)の設立を支援しています。そして、明治26年には山口県への移住を許可され、防府に居を構えました。素彦65歳、文51歳のときでした。
 明治30年、素彦は明治天皇第十皇女貞宮多喜子内親王の誕生に伴い御養育主任を命じられ、妻の文も貞宮に仕えることになります。東京の青山離宮(現東京都港区赤坂御用地内)に貞宮御殿があり、そこで楫取夫妻は数名の係とともに貞宮の養育にあたりました。翌31年には、素彦は宮中顧問官に任じられます。
 病弱であった貞宮を素彦らは手厚く看護しますが、明治32年1月にわずか3歳(満1歳6カ月)で夭逝します。素彦や文の悲しみはいかばかりだったでしょうか。素彦は葬祭の喪主をつとめ、10月には貞宮の遺品を譲り受け、松崎神社(現防府天満宮)に奉納、貞宮遥拝所を建立して、毎年命日には参拝をしたそうです。

防府での穏やかな余生

 素彦はその後も貴族院議員を長らくつとめ、防府と東京の間を汽車で往復する日々を続けます。その間、文は公務で忙しい素彦を支えます。
大正元年(1912)8月、素彦は84歳で逝去。文は防府で夫の最期を看取ったことと思われます。
 9年後の大正10年9月7日、文は79歳で穏やかに永眠します。素彦と死別後、文がどのような余生を過ごしたかは、よく分かっていません。素彦との間には子どもは生まれませんでしたが、晩年の文は、兄や玄瑞などの死に直面した動乱期の苦難の日々と違い、穏やかな老後を過ごしたのではないでしょうか。なお、墓所は防府市桑山の大楽寺にあり、素彦とともに眠っています。