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「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」 長崎エリア

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年2月21日更新

明治日本の産業革命遺産ロゴマーク

長崎エリア

造船・石炭産業の発展形

 長崎エリアは第6番目のエリアで、長崎市にあります。構成資産は、長崎造船所関係で小菅修船場跡、第三船渠、旧木型場、ジャイアント・カンチレバークレーン、占勝閣の5つ、高島炭鉱関係で高島炭坑、端島炭坑の2つ、そして旧グラバー住宅の合計8つあります。 
 長崎造船所は、安政4年(1857)幕府が招聘したオランダ人技師の指導で軍艦修理所「長崎鎔鉄所」として長崎港に建設され、その後明治政府によって「長崎製鉄所」「工部省長崎造船局」と名称を変え運営されました。明治20年(1887)には三菱が買い取り、三菱重工業長崎造船所は日本最大の民間造船所として発展しました。萩エリアとの関係として、松下村塾生の渡辺蒿蔵が長崎造船局の初代局長を務めたことが挙げられます。また小菅修船場跡は、現存する日本最古の洋式スリップドックで、薩摩藩とスコットランド出身の商人トーマス・グラバーによって建設され、その後三菱の所有となりました。

小菅修船場跡
小菅修船場跡の日本最古(明治2年)の
スリップドック(別名そろばんドック)

  高島炭鉱は、開国に伴い外国の蒸気船の燃料として高まった石炭需要を受けて、佐賀藩がグラバーとともに明治元年(1868)、長崎沖の高島に海洋炭鉱を開発したことによって始まりました。日本最初の蒸気機関を動力とした採炭が行われ、日本の炭鉱近代化の先駆けとなりました。端島炭坑(軍艦島)は高島炭坑の技術を引き継ぎ、炭鉱の島として開発されました。採炭が本格的になったのは明治中期以降で、国内外の石炭需要を賄い、明治末には八幡製鉄所へも原料炭を供給しました。最盛期には5300人が居住し、人口密度は1400人/haで東京都区部の約9倍でした。坑口等の生産施設跡や住居跡、数回にわたって拡張された海岸線を示す護岸遺構が残っています。

現在の端島炭坑(軍艦島)
現在の端島炭坑(軍艦島)