同時開催

井上剣花坊と川柳展

 
井上 剣花坊 (いのうえ けんかぼう)
明治3年〜昭和6年(1870〜1934)
 明治・大正時代のジャーナリスト、川柳師。本名は幸一。
 萩藩士井上吉兵衛の長男として、萩町江向に生まれ、ほとんど独学自習によって小学教員となり、地元の新聞記者を経て、明治33年(1900)上京。雑誌『明義』の記者となって文芸欄を担当した。
 その後、日本新聞社に入社し、「剣花坊」と称して新聞『日本』に「新題柳樽」欄を設け、新聞記者をつとめるかたわら川柳の改革復興に尽力した。
 明治38年(1905)柳樽寺川柳会を組織して機関誌『川柳』を創刊。大正期には「柳樽寺剣花坊」の名で、新川柳界の総帥と仰がれた。門下は全国各地に広がり、なかには「雉子郎」の川柳名をもつ作家吉川英治もいた。
 著書に『新川柳六千句』『川柳を作る人に』などがあり、また妻信子も川柳作家として活躍した。
 
「新川柳に対する私の主義主張」
井上 剣花坊
 
 私の主義は、平民主義です。自由主義です。人間としては上、御一人を除くの外は、決して貴賎の差別はない、という簡単な主義です。

 私は長州に生まれました。吉田松陰や高杉東行※1や寺島刀山※2は、親族関係もあり、また、その人たちの主義、性行に教化、陶冶された関係もありますから、すべてその人達の心を以って心としておりますが、この人達はいずれも尊皇主義者でありました。
同時に平民主義者でした。自由主義者でした。

 私が新川柳に対して持っている主義は、この短き詩を徹底した民衆芸術たらしむることと思います。

 民衆のだれもが詩をつくり、そうして自分のつくったものを自分で歌うのが当然だと思います。否、それが真に民衆芸術、民衆詩というものだろうと考えるのです。
 
※1高杉東行(晋作) ※2寺寺刀山(忠三郎)
『大正川柳』、大正九年(一九二〇)十一月号より
 
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