山口県が生んだ

七人の宰相展

 
展示資料一覧
 
伊藤博文七絶書
萩博物館蔵
山口香山園(瑠璃光寺の隣)にある13代萩藩主毛利敬親の墓前で賦し呈上した漢詩。中国の詩人陶淵明(4〜5世紀)が賦した「帰去来辞」から「作非今是」という言葉を引用し、春の情景に自らの心情を込めている。
 
 
伊藤博文書簡
個人蔵(萩博物館保管)
明治22年(1889)12月7日、娘婿の末松謙澄に宛てた書簡。府県郡制に対する郡長の意見を末松に送った。この年、末松は府県郡制の案を執筆していた。世外(井上馨)や伊東巳代治の名も見える。
 
 
山県有朋書額「知動静之理」
萩博物館蔵
田中義一に与えた書額「動静の理を知る」。山県は、田中の戦術家としての手腕を絶賛した。日露戦争時、田中は作戦主任参謀となり、日本軍を勝利に導いた。
 
 
山県有朋七絶書
萩博物館蔵
山田顕義・杉孫七郎・野村素介との合作の漢詩。彼らはみな萩の出身で、明治維新後、山田は司法大臣、杉は宮内大輔、野村は文部大書記官になった。山県の漢詩は、東山から眺めた京都の風景を詠んだものであろう
 
 
山県有朋書簡
萩博物館蔵
明治42年(1909)1月25日、吉田松陰の実兄杉民治に宛てた書簡。松陰の50年祭を懐かしむとともに、野村靖の死去を伝えている。今日の日本があるのは、松陰の遺訓のお蔭であると書き送っている。
 
 
桂太郎二行書
個人蔵(萩博物館保管)
明治41年(1908)4月、皇太子(後の大正天皇)の行啓に同行して山口に来た際の書。「皇太子の乗った車が山口に入り、皇室の恩恵が防長二州(山口県)潤す」と書している。
 
 
桂太郎書簡(印刷)
萩博物館蔵
第1次憲政擁護運動に活発化に対抗して、大正2年(1913)2月、全国の同志に新政党「立憲同志会」への加入を呼びかけた書簡。桂自筆の書簡が印刷されて全国に配布されたものと思われる。
 
 
寺内正毅三行書
萩博物館蔵

明治45年(1912)初夏に、田中義一に与えた書。この時、田中は陸軍軍務局長で、二個師団増設問題で西園寺公望内閣と対決していた。この書は、初代朝鮮総督に就任していた寺内の田中へのエールとも受け取れる。

 
 
寺内正毅書簡
萩博物館蔵

吉田松陰の実兄杉民治の養嗣子杉相次郎に宛てた書簡。杉相次郎は山口県の役人などをつとめた後、旧藩主毛利家に家令として仕えた。杉相次郎の病気による家令辞任に対し、その健康を気遣っている。

 
 
田中義一肖像 犬養毅賛
萩博物館蔵

大正14年(1925)田中は政友会総裁となり、犬養が率いる革新倶楽部と合同した。犬養は、昭和4年(1929)田中が病没した跡を受けて政友会総裁となり、昭和6年首相に就任した。犬養の賛文は、田中の人となりを称えている。

 
 
田中義一二行書「九思」
萩博物館蔵

論語の一節で、君子たる者の九つの心得を記す。この書は、田中が総理大臣に就任する前年の大正15年(1926)初秋に書かれたもので、君子たるべき者の心得を田中自身に重ね合わせたのかもしれない。

 
 
田中義一書額「健身錬膽」
萩博物館蔵

玉江浦の青年宿「角屋組」に与えた書額。青年団の組織化に尽力した田中は、青年団の模範となる玉江浦の青年宿をこよなく愛したびたび訪れ、青年宿の組織を高く評価していた。

 
 
岸信介書額
萩博物館蔵

旧田万川町役場に掲げてあった書額。「日月、私照無し」。日月は私に照らすことはない、つまり恩を施すことの公平な喩え。

 
 
佐藤栄作三字書「南山寿」
おおすみ歴史美術館蔵

「南山」とは、中国の終南山の異称。「南山の寿」とは、終南山が崩れないのと同じように、その人の事業が永久であること。転じて、長命を祝うことば。

 
 
佐藤栄作色紙「春風接人」
萩博物館蔵
 
 
桂太郎所用陸軍大将帽
萩博物館蔵

桂は大正2年(1913)10月10日に死去したが、遺言によって遺体は解剖に付せられた。その結果、桂の脳の重量は1,600g(当時の日本人男子の平均1,356g)で、ビスマルクより200g軽く、カントと同量であったという。当時、桂は「大頭」として知られていた。

 
 
田中義一所用帽子
萩博物館蔵

大正11年(1922)3月28日、田中が上海で爆弾テロに遭遇した際にかぶっていた帽子。当日の日記に「爆弾の破裂せざりしは誠に余の幸福なり。天佑なり。唯初発なりしか最後なりしか、余の帽子に一発命中四孔を穿てり、併し是れは当分秘する考えなり」と記している。田中の記述どおり、帽子の上部に銃撃を受けた穴が4箇所開いている。

 
 
 
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