主な展示資料
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@井上聞多ほか4名書簡(国立国会図書館蔵、10月13日〜パネル展示)
イギリスへ密航留学のため、横浜を出発する前日の文久3年5月11日、密航留学生5名の連署で、藩首脳部の毛利登人・楢崎弥八郎・麻田公輔(周布政之助)・桂小五郎にあてた長文の手紙。長さは約5mに及ぶ。本文を書いたのは井上。五人で五千両という渡航費を、江戸藩邸にあった鉄砲購入費を無断で担保にして、伊豆倉という商人から借りたことを何度もわびる。しかし自分たちは「生きた器械」となる覚悟だとも、知らせる。伊藤春輔は京都で参加を決めたことが述べられている。 |
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A滝善三郎の切腹に使用した脇差(個人蔵)
明治元年2月9日兵庫永福寺にて、「神戸事件」(岡山藩と外国兵が神戸で衝突した。伊藤らが解決)の責任を負わされた滝善三郎が切腹したときに使用したもの。 |
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B政府の外交を非難した井上馨の手紙(国立国会図書館蔵、10月13日〜パネル展示)
明治元年3月28日、神戸にいた伊藤宛。当時、伊藤の周囲では神戸事件・堺事件など日本の武士による外国人殺傷事件が相次いでいたが、誕生間もない政府はその対応に苦慮していた。井上は、外国との交渉の際、恐怖が先に立っては幕府の過ちを繰り返すとし、どのような小国が相手であっても「信義」と「公法」で臨むべきだとの意見を述べる。 |
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C伊藤博文着用の大礼服(兵庫県立歴史博物館蔵)
洋式の大礼服制は明治4年11月5日に太政官布告にて公布された。岩倉使節団が洋服着用の必要性に迫られ、出発前に急遽制定。イギリスの高官が宮廷儀礼などのさい着用するコートドレスとほぼ同じ形式である。 |
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D憲法調査を命じる勅書(国立国会図書館蔵、10月13日〜パネル展示)
参議の伊藤は、明治15年3月3日、皇居学問所において明治天皇から直接、この勅書を与えられた。伊藤が任じられたのは、ヨーロッパ各国における憲法制度の組織および運用の調査であった。 |
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E大日本帝国憲法義解(神奈川県大磯町立大磯小学校蔵、10月13日〜パネル展示)
憲法の解説書。活字に起こした最終に近い草稿に筆が入っている。 |
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F伊藤博文が絵付けした萩焼(松本焼)の酒盃 (兵庫県公館県政資料館歴史資料部門蔵)
萩焼(松本焼)。萩に帰省した際絵付けをしたのだろう。
盃には「高楼仰尽三杯酒 天下英雄在此中 博文」と書かれている。 |
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G初公開!伊藤博文、最後の揮毫のひとつ (春風文庫蔵)
明治42年、伊藤が満州を訪れた目的のひとつは、日露戦争の戦跡をその目で見ることであった。これは、10月20日、旅順港での感慨を詠んだ作を揮毫したもの。26日に暗殺されたから、きっちりとした揮毫では現在確認される最後の作である。後に娘婿の末松謙澄が箱書きしている。 |
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H暗殺された時、伊藤博文が着ていたシャツ(山口県立山口博物館蔵、10月13日〜パネル展示)
大量の血痕が生なましい。箱の蓋裏に当時の随行員室田義文が昭和11年に識語を書いている。撃たれた伊藤は列車の中で医師の応急手当を受け、ブランデーを2杯飲んだが30分後に亡くなった。加害者が韓国人だと知らされると「馬鹿な奴じゃ」とつぶやいた。 |