河上弥市碑

(北古萩町 長寿寺)
  


     萩市外の米屋町筋を北に突き当たった所に、広大な敷地を有する長寿寺がある。正面の山門右手の脇門を入ると目の前に不動堂があり、その前を左手に石畳を進むと十メートルほどで本堂正面に達する。さらに本堂の左手鐘楼の下を通り抜けできる通路があり、寺の裏道に出る。通称この寺が、抜け寺といわれている由縁である。
     その鐘楼の手前、東向きに高さ一八五センチメートル、幅一〇五センチメートルの石碑が建っている。
     碑は花崗岩の切石で、「河上繁義君碑銘」と題し、河上弥市の二従兄弟にあたる山田顕義が、明治二十二年(一八八九)撰し、岡守節が書したものである。
     碑の左手前に河上弥市の小さな墳があるので、それに対しての弔祭の碑と思われる。
     河上弥市は、萩藩士河上忠右衛門の長男として萩城下金谷に住した。高杉晋作が下関で奇兵隊を結成したとき同志と共に協力し、攘夷戦には総監として奇兵隊を指揮した。文久三年(一八六三)八月十八日の政変後、長州に都落ちした七卿の一人沢宣嘉を擁し同年十月十四日、平野国臣・白石廉作らと農兵を組織して但馬生野で挙兵、参謀となって生野の代官所を襲ったが、事敗れて妙見山の麓で同志十一人と自刃した。二十一歳の若さであった。