元帥公爵山県有朋誕生地碑

(川島 山県有朋誕生地)
  


     橋本橋から橋本川の土手を川島方面に上流へ上がると、土手に沿って厳島神社の跡がある。その手前を下ると、正面に山県有朋の誕生地の一区画がある。中央に南面して高さ三一〇センチメートル、幅九〇センチメートルの御影石の巨碑が、組石の上に二段の台石を置いて建っている。表面には「元帥公爵山縣有朋誕生地」と工藤壮平が書し、裏面には誕生地の由来を養子の山県伊三郎が撰し、同じく工藤壮平が書し、大正四年(一九一五)に建てられた。
     山県有朋は、天保九年(一八三八)萩藩の中間山県有稔の長男としてここに生まれ、十九歳の時吉田松陰に学んだ。軍人として頭角を現すのは奇兵隊の軍監となってからで、四国連合艦隊の来襲や高杉晋作挙兵による内訌戦で活躍、戊辰戦争では官軍の参謀として転戦した。明治二年(一八六九)欧州を視察、帰国後は兵部大輔・陸軍大輔・陸軍卿・陸軍大将・元帥へと進み、わが国の陸軍の中心的存在として長州陸軍閥を形成し、また政治家としては二次にわたり内閣を組織した。晩年は元老として政局を動かしたが、大正政変以後は指導力も弱体化した。大正十一年(一九二二)八十五歳をもって没し、国葬に列せられた。