吉田松陰歌碑

(椎原 松陰神社)
  


    親思ふこゝろにまさる
      親こゝろ
       けふの音つれ
      何ときくらん
            寅二郎

     松陰神社の大鳥居をくぐり、石段を上がり、石畳の参道を正面に向かって進むと、楓の木の下にこの和歌を彫った高さ一二〇センチメートル、横二三〇センチメートルの石碑が横たわっている。
     この歌は松陰が安政六年(一八五九)十月二十日、江戸伝馬町の獄中から萩の父杉百合之助と叔父玉木文之進および兄杉梅太郎の三人に宛てた書簡の中にあるもので、永訣の歌といわれている。昭和三十七年(一九六二)萩国際ライオンズクラブ会員が認承を記念して、ここに建立した。歌の原文は縦長の一行で書かれているが、石碑の碑面にあわせて六行の書に、在萩の書家下瀬茂雄が模写、揮毫したのである。
     歌の作者吉田松陰は、萩藩士杉百合之助の次男として生まれ、六歳の時山鹿流兵学の家柄である叔父吉田家を継いだ。その後藩主に認められ、九州を遊歴、江戸に出て、さらに東北遊歴等を行い識見を高めた。再来したペリーの軍艦で海外密航を企て失敗、萩の野山獄につながれた。出獄後、実家杉家に預けられて松下村塾を主宰し、久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋等多くの俊才を育てた。しかし、藩政を批判して下獄、安政の大獄により江戸伝馬町の牢で刑死した。二十九歳の若さであった。