吉田松陰先生誕生之地碑

(椎原 吉田松陰誕生地)
  


     松陰神社から道を右手に取り、緩やかな坂道を登ると護国山麓の団子岩に吉田松陰の誕生地がある。ここから前方に広がる眼下の萩市街の景観は、今では天守・城郭こそ見えないが、昔ながらに、城下の静かで美しいたたずまいを見せてくれる。
     天保元年(一八三〇)吉田松陰は萩藩士杉百合之助の次男として、ここで誕生した。のち吉田家を継いだ後も両親と共にこの場所に住んだが、嘉永元年(一八四八)十九歳の時、一家は松本村清水口に移り、さらに現在の松陰神社境内に遺存する宅に移った。
     現在、ここには当時の建物は何一つ残ってないが、大正十一年(一九二二)当時の椿東村青年会長信国顕治が誕生地宅址の荒廃を憂え、青年会員に呼びかけ、土地の整備や道路の改修等を行って、宅の間取りを示す敷石を設置した。それとともに、松下村塾門下生であった元帥山県有朋に揮毫を依頼し、石碑を建立した。石碑は正面の池を前にして小高い築山の中に、高さ二四五センチメートル、幅一四〇センチメートルの自然石で造られている。表面に「吉田松陰先生誕生之地 門下生 山縣有朋」刻し、裏面には、関係者二十六名の氏名と「大正十一年八月四日 椿東村青年会長 信国顕治識」と刻してある。間取り敷石の側には、宅地整備の由来を述べた山形の石碑も建てられている。なお、当時のものとしては右手奥に古い井戸が残っており、傍らに田中義一揮毫による「松陰先生産湯の井  阿武郡小学校職員児童建之」の石碑が建っている。
     幽静な林間にあって、四季の風物を友とする環境、松陰にとっては、終生忘れることのできない心のふるさとであったであろう。