四大夫十一烈士墓碑

(椎原 東光寺)
  

    益田右衛門介親施

    福原越後元|

    国司信濃親相

    清水清太郎親知

    竹内正兵衛勝愛

    中村九郎清旭

    佐久間佐兵衛義済

    宍戸左馬之介真澂

    渡辺内蔵太暢

    楢崎弥八郎清義

    山田亦介公章

    大和国之助直利

    前田孫右衛門利

    松島剛蔵久誠

    毛利登人武

     萩藩主毛利家菩提寺東光寺の大雄宝殿の裏、歴代藩主墓所の前広場に林立している。明治二十二年(一八八九)十月、東京在住の旧藩士杉孫七郎や地元の杉民治らが斡施し、元治元年(一八六四)藩の内訌によって殉死した四大夫、四参謀、七政務員の招魂墓が遺品を埋めて造営された。のち明治三十一年(一八九八)に、周布政之助の招魂墓も同じところに建てられた。
     それぞれの墓碑は角柱で、高さ一二〇センチメートル、幅二四センチメートル、表に岡守節の書で名前が刻まれている。右側面には辞世の詩歌、左側面には没年月日と年令が彫られている。

    益田右衛門介親施
    辞世
     今更に なにあやしまむ 空蝉の
     よきもあしきも 名のかはる世は
          元治元年十一月十二日  三十二歳

    福原越後元|
    中原賊を逐気鷹揚 猟狗煮らるる時この殃に罹る 愁思只こゆ三閲月齡将につきんとす玉旬霜 体はやするを知る食に甜味なし 髪はひねるに足る詩は章を調べ難し 嘆ず邦家何の日か定まらん 忠精一貫す鉄心腸
                       幽囚中作
          元治元年十一月十二日  五十歳

    国司信濃親相
    辞世
     よしやよし 世をさるとても わがこゝろ
     皇国のために なほつくさばや
          元治元年十一月十二日  二十四歳

    清水清太郎親知
    幽囚中詠
     世のことは 絶えてをぐらき 山里に
     こゝろつくしの 夜半のともし火
          元治元年十二月二十五日  二十二歳

    竹内正兵衛勝愛
    辞世
     武士の 露ときえゆく 枯野かな
          元治元年十一月十二日  四十八歳

    中村九郎清旭
    幽囚中作
     子房の一撃豈に功なからんや 天下何の辺か 沛公出
    でん 命を山中に待ちて猶未だ死せず 白雲黄菊自ら
    秋風
          元治元年十一月十二日  三十七歳

    佐久間佐兵衛義済
    辞世
     今ははや ことの葉くさも 世の霜に
     きえゆく身とは なりにけるかな
          元治元年十一月十二日  三十二歳

    宍戸左馬之介真澂
    辞世
     われならぬ 人のしをりを たどりつゝ
     たか根に匂ふ はなをみるかな
          元治元年十一月十二日  六十一歳

    渡辺内蔵太暢
    辞世
     人間の行路ことごとく風波 一死君に報ゆ
     豈に他あらんや 姦吏は知らず賈生の志
     流涕すこの国家をいかんせん
          元治元年十二月十九日  二十九歳

    楢崎弥八郎清義
    辞世
     日出づるの邦義方を事とす 飢えず凍えず星
     霜を送る 今宵一死聖明に酬ゆ 二十八年更
     に長きを覚ゆ
          元治元年十二月十九日  二十八歳

    山田亦介公章
    辞世
     ちる時は ちるもよしのの 山さくら
     花にたぐへし 武士の身は
          元治元年十二月十九日  五十六歳

    大和国之助直利
    辞世
     君がため 刃にそむる 真心の
     いとど嬉しき 心地こそすれ
          元治元年十二月十九日  五十八歳

    前田孫右衛門利
    辞世
     一死飴の如し豈に敢て辞せんや 官に居りて
     半生 清時に値ふ君に酬ゆ心 事何ぞ弁ずる
     をもちけん 只青天白日の知るあり
          元治元年十二月十九日  四十七歳

    松島剛蔵久誠
    辞世
     かねてより たてしこゝろの たゆむべき
     たとへこの身は くちはてぬとも
          元治元年十二月十九日  四十四歳

    毛利登人武
    辞世
     皇の 道しるき世を ねかふかな
     わが身はこけの したにくつとも
          元治元年十二月十九日  四十四歳