第一大隊碑/干城軍之碑/第四大隊之碑/振武隊招魂碑

(新川 萩市護国神社)
  

    第一大隊碑

    干城軍之碑

    第四大隊之碑

    振武隊招魂碑

     姥倉運河に沿った道を北に向かうと、長添山と鶴江台の切り通した所に至る。そこを右手に曲がり長添山の麓に沿って細い路地を二百メートルほど行くと、左手に山に登る石段が見えてくる。長くて急な石段を登りつめると、萩市護国神社の説明板が立っている。そこを右に折れ、参道の石塁を進むと石段があり、「昭和五十二年第一大隊壱番隊」の名で再建された鳥居が建っている。以前の鳥居は柱部分のみ右手の草叢の中に残されており、「明治三庚午六月日第一大隊壱番隊」と彫られている。
     石段を上がると広場になっており、左右には関係諸隊の碑が建ち並んでいる。右手の一基は高さ二〇〇センチメートル、幅五九センチメートルの碑で、中国風のデザインを施した石の瑞垣に囲まれ、猫足の浪模様を施した台石上に建っている。上部には向かい合った龍が陰刻され、その下には「第一大隊碑」の篆額と、兼重慎一が撰し高島張輔が書した本文が彫られている。内容は第一大隊の戊辰戦争における功績を称え、裏面には不幸にして帰れなかった四十七名の姓名及び戦死地・没日が書かれている。
     左手には右手と同様、中国風のデザインを施した瑞垣の中に三基の碑が建っている。向かって右の碑は高さ一七〇センチメートル、幅六〇センチメートルで、上部に向かい合った龍が陰刻され、その中に「長添山干城軍之碑」の篆額があり、下に碑文が刻されている。本文は落合済三の撰、高島張輔の書で、明治二年(一八六九)八月に建てられた。中央の碑も、高さ一九〇センチメートル、幅七二センチメートルで、同じく上部に向かい合った龍の陰刻があり、中に篆額で「第四大隊之碑」と彫られている。碑文は赤川晩翠の撰で隊士の功績が書かれ、裏面には、戊辰戦争で亡くなった隊士の名前及び戦死地・年令等が彫られている。左手の碑は「振武隊招魂碑」で、高さ一九〇センチメートル、幅七一センチメートル、上部には向かい合った龍が陰刻されている。明治五年(一八七二)五月、振武隊長官の名をもって生き残った戦友達によって建てられた。撰並びに書は奇兵隊にも入り、戊辰戦争にも従軍した長三州である。
     また、広場の南に戦死者の姓名と没年月日及び戦死地を記した招魂墓三十一基が、角材型の墓碑にして二列に建てられている。
     第二次長州征伐に続いて、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争には、萩の武士や庶民が多数参加した。これらの戦いが終わって、明治元年(一八六七)から二年にかけて無事に帰ってきた者もいるが、遺言や遺品のみを受け取った家族も多数あった。「干城軍之碑」「第四大隊之碑」「第一大隊碑」「振武隊招魂碑」などの石碑には、各地に転戦して寒暑風雨のもとで戦い死んでいった多数の人達の魂がまつられている。明治維新は、彼らの犠牲なくしては成らなかったのである。

    第一大隊碑

    振武隊招魂碑/第四大隊之碑/干城軍之碑