【最終回】 徳冨道行橋と石屋町



     藍場川は、水車筋の北詰から北西に向きを変えます。そして、国道191号の下を通り、県立萩美術館・浦上記念館の裏を流れ、平安古の石屋町筋に出会います。この地点に長さ、幅とも約3メートルばかりの小さな石橋が架かっています。橋の親柱には、「徳冨道行橋」という橋の名と、「明治四十年五月徳翁生八十歳修繕之」と刻まれています。明治40年(1907)5月、徳冨浅次郎が80歳の時に橋を架け替え、自分の名を橋の名としたことが分かります。
     徳冨浅次郎は道標の設置や道路の修理、交通安全のための街灯など、萩市中の道路交通設置の整備に尽くしたといいます。さらに、各所の社寺へ額の奉納や樹木の寄進、学校・社寺・慈善団体に寄付金も施しています。現在残っている唐樋の札場や金谷神社前の道標は、浅次郎が建てたものです。この石橋も浅次郎が私財を投入し、石屋町に住んでいた石工が製作したものではないかと思われます。
     この付近一帯は石屋町と呼ばれ、藩政時代にはたくさんの石工が居住していました。最初石工たちは、萩城の外堀端の南片河町で営業していましたが、通行の妨げになるということで、宝永期の初め(1700年ごろ)今の石屋町に移転したといいます。それゆえ藩政時代には、石屋町は平安古町ではなくて、南片河町に属していました。石屋町のそばには、藍場川や新堀川が流れており、舟運による石材や製品の運搬に便利な土地柄だったのです。石屋町には最近まで1軒の石屋が営業していましたが、現在では全く見られなくなってしまいました。しかし、徳冨道行橋のそばには、萩藩お抱えの石工であった武林家の古い立派な屋敷が、その名残を今に伝えています。
     また、藍場川が新堀川と合流する手前には、6枚の大きな石盤を渡した長さ2.5m、幅3.6mほどの豪放な石橋が架かっています。まさに、石屋町の昔日の繁栄を彷彿とさせる作りとなっています。

    (市報はぎ1997年7月15日号掲載)