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第2話「波乱の恋文」キーワード

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年2月13日更新

大組

 藩主毛利氏の直参家臣で、馬上を許された上級藩士。8組あり、2組が交代で江戸藩邸を、その他の6組が萩城の警護などを担当しました。周布家(政之助は分家)や高杉家などがあります。
 また、享保4年(1719)明倫館の創建時に師範として昇格した家が13家あり、松陰が継いだ吉田家などがあります。

節句餅

 ドラマで、河原で落ち込んでいる小田村伊之助を、文が慰めようとして差し出した、杉家の皆も大好きという、よもぎが練り込まれた「節句餅」。江戸でも伊之助と大福餅を分けて食べるシーンもあり、「久しぶりに家の味を思い出した。雛の節句の時に食べる、よもぎの・・・」と語っているのが、この節句餅のことでしょう。
 萩だけでなく、各地で節句に餅(かしわ餅やいぎの葉餅など)を食べる風習があり、ドラマでは杉家の餅は、よもぎ餅という設定でした(文が手をよもぎで染めているシーンもありました)。
 松陰は実際に大福餅好きで、『松陰余話』という書物によると、遊学中は質素倹約に努め、「費用録」という出納帳を記しており、それによると高価だった書籍を買うため食生活は質素だったようですが、唯一の例外が「大福」で時々購入していたと残されています。

■大河ドラマ館で「節句餅」が楽しめます
 文と萩物語「花燃ゆ」大河ドラマ館のショップで、「節句餅」が販売中です。甘いあんこが入った柔らかいよもぎのお餅です。

東北遊歴(東北脱藩行)

 嘉永4年(1851)7月17日、脅威にさらされている東北の守りなど、この目で確かめたいという思いから、宮部鼎蔵と東北遊歴を計画。松陰は江戸藩邸に東北遊歴の願書を提出します。藩内抗争で獄死した兄の敵討ちのため国元に戻る元南部藩士江帾五郎のため、吉良邸討ち入りの12月15日と出発の日取りを決めます。
 しかし、他国を旅するときに必要な手形の発行が遅れます。信義に反することは、藩の恥となるという松陰の考えから、松陰は手形の交付を迫りますが、結局交付を待たずに出発します。その後、水戸から会津、新潟、佐渡、弘前、青森、盛岡、など冬の厳しい東北路を旅し、各地で藩校や人材を訪ね学ぶとともに、また海岸線の防備の様子などを実際に目にしながら、140日間の東北遊歴を終え江戸へ帰着。脱藩の罪で帰国を命じられ、杉家で謹慎、士籍剥奪などの裁定がおりますが、嘉永6年1月に10年間の他国修行を許され、諸国遊歴の旅に出ます。

松陰の脱藩行

 ドラマでは、宮部との約束を守るため、藩の許しを得ないまま脱藩し、東北遊歴に出かけた場面が紹介されましたが、実際には次のような旅程となっています。

  • 嘉永4年(1851)12月14日に江戸桜田藩邸を出発、12月19日、水戸城下に入り、「新論」著者の会沢正志斎らに学びます。その後、白河で江帾と別れ、会津街道を行きます
  • 嘉永5年1月29日 会津若松(藩校日新館の見学など)
  • 2月10日 新潟(松前行きの船を探すがなく、2月15日に出雲崎から佐渡へ)
  • 2月27日 佐渡(金山管轄の佐渡奉行所など訪問)
  • 新潟に戻り、日本海沿いに北上
  • 閏2月24日 久保田(秋田、軍備や財政事情を聞く)
  • 3月1日 弘前(津軽半島の海防や藩校稽古館の見学など)
  • 3月4日~5日 小泊、竜飛崎の近く算用師峠(標高372メートル)で津軽海峡を望み、三厩、今別、大泊、上月を経由
  • 3月6日 平舘の台場を見ながら二ツ谷から海路青森に渡る
  • 野辺地、五戸、一戸を経由し、3月11日 盛岡(江帾の家族を訪ねる)
  • 3月14日 平泉(中尊寺参詣)
  • 一関を経て3月16日 石巻、17日 塩釜(塩釜神社参詣後、多賀城跡を訪ねる)
  • 3月19日 仙台(藩校養賢堂の見学など)
  • 3月25日 米沢(藩校興譲館を見学など)
  • 会津を経て今市で東照宮など参詣
  • 4月3日 足利(足利学校の見学)
  • 4月5日 関宿で江戸へ向かう夜舟に乗り、江戸橋下に着(およそ140日の行程)
  • 4月10日 藩邸に自首
    (参考 萩ものがたり「吉田松陰と旅」海原徹)