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第3話「ついてない男」キーワード

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年2月13日更新

育(はぐくみ)

 家柄などに関係なく、他家の優秀な子などを自分の養子に、また家禄の高い武家の養子になるなど、養子並みの身分を認めることで、立身出世への道を拓く、長州藩独特の制度。
 松陰は脱藩の罪を問われ吉田家は断絶、士籍を剥奪され、嘉永5年(1852)12月9日、父百合之助の「育み」となりますが、この場合は、父の保護観察下に置かれ、再教育の機会を与えたという意味合いでしょう。毛利敬親は処分を惜しみ、松陰に10年間の遊学の許可を出します。

建白書「将及私言(しょうきゅうしげん)」

 10年間の遊学が許可され、松陰は嘉永6年1月26日、萩を出発して、讃岐―摂津-河内―大和―伊勢―美濃―信濃―上野を通り、5月24日江戸に到着します。黒船来航を知り、すぐさま6月4日に浦賀に米国軍艦を視察し、10日に江戸に帰着しますが、この頃に、藩主に提出した建白書が、「将及私言」です。
 建白は藩士にのみ許されており、いわゆる浪人となっていた松陰は匿名で提出しますが、松陰のものであることが分かり、藩邸への出入りが禁止されます。ドラマでもあったように、無許可での建白は死罪となる場合もあり、松陰は承知した上での命を懸けた建白でした。「将及私言」の中で、松陰は、開港を迫るペリーが再来する際、幕府とペリー艦隊との間で戦になると考え、それに備える必要があると書いています。

知行合一(ちこうごういつ)

 陽明学の命題の一つで、知ることと実行することとは本来二つには分けられない、知っているだけで実行しないのは本当の知とはいえないとして、実践のうえで知と行とが一致することが重要としています。王陽明は、朱子学や明代の俗学が実践を伴わないことを批判して、知行合一を主張しました(出典「伝習録」上)。
日本の危機を知った松陰は、行いが伴ってこそ知識に意味があると、命を省みず行動を起こします。そして、この言葉は松下村塾の門下生にも受け継がれていきます。
 松陰は嘉永6年9月に長崎でロシア軍艦に乗船し密航しようとしますが、すでに出港した後で目的は達せられません。11月10日に萩に帰省し、24日に萩に来た宮部鼎蔵らとともに、江戸へ向かいます。そして、翌年黒船密航を企てます。

沢まんじゅう

沢まんじゅう 寿と伊之助の祝言では、「沢まんじゅう」が振る舞われます。文も、神社で「祝言でさわまんじゅうがたくさん食べられますように」とお祈りしています。第2話では松陰が大福餅が大好物だとありましたが、杉家の皆も甘い物には目がないようです。
 「沢まんじゅう」は、こしあんを蒸したもち粉でくるんだお菓子で、生地の表面に、色粉で赤と緑の色をつけ、波のような模様を付けるのが特徴の郷土菓子です。祝い事や祭事のときに作られ、食べられていました。