ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
ホーム > 組織一覧(部署名をクリックで詳細) > 広報課 > 第10話「躍動!松下村塾」キーワード

第10話「躍動!松下村塾」キーワード

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年3月9日更新

松下村塾

松下村塾  松下村塾は、天保13年(1842)頃、叔父の玉木文之進が自宅の一隅(現在の旧宅地)に創始したもので、塾が始まると松陰や兄梅太郎も通っていました。その頃、文之進は部下の責任を取り免職となっていましたが、その後、公務に復帰して忙しくなったため、嘉永元年(1848)には塾を閉じます。
 嘉永初年頃、松陰の外叔久保五郎左衛門が、松下村塾から東へ半町(50メートル)離れた自宅で子弟を集めて塾を開きます。松下村塾の名札を掲げた正確な時期は不明ですが、文之進が塾を閉じた頃より後、少なくとも嘉永2年以降だと思われます。ここでは、吉田栄太郎(稔麿)や伊藤利助(博文)などが学んでいます。
 松陰が幽囚室で講義を始めた安政3年(1856)頃は、まだ久保が松下村塾を主宰していました。この頃は、いわゆる久保塾の塾生が掛け持ちで松陰に講義を受けていたと思われます。安政4年秋頃に入塾した高杉晋作は手紙で「松下村塾」ということばを使っており、11月初めに幽囚室から独立の塾舎(現在の松下村塾)へ移った頃、松陰主宰の「松下村塾」がスタートしたと思われます。
 (参考 萩ものがたり「松下村塾」、「久坂玄瑞」)

フグを食べない松陰

 幽囚室で、フグが入った桶を見ながら、松陰が「フグはうまい。じゃが毒がある」、「フグ食を禁じている藩も多い。これは道理にかなった禁令だろうか」などと伊藤利助などと議論を始めます。塾生がフグ鍋を食べるときも、松陰は食しません。
 最後に松陰は、この世の中で一番恐れていることは、「何事も成さないこと、そして成そうとしないこと。志の果てに迎える死以外で、死にたくはない、断じて」と利助に言い、利助は「そのためには目先の誘惑やつまらない毒に足をすくわれたくない、だからフグは食べない」と松陰の真意を悟るシーンがあります。
 実際、松陰の「丙辰幽室文稿」に、「不食河豚説(河豚を食わざるの説)」というものが残されています。一部を紹介すると、「世に言ふ河豚毒ありと。其の之を嗜む者特に衆し。余独り食はず。死を懼るるに非ず、名を懼るるなり。夫れ死は人の必ず有る所、固より懼るるに足らず。然れども死生亦大なり。苟も一魚の小を以て死生の大を致すは顧ふに士名を辱めずや」。要約すると、「フグには毒があるといわれるが、好む者は多い。自分がこれを食べないのは、死は誰にでも訪れるものであり、死を怖れるわけではなく、名を失うことを怖れている。死は誰にでも訪れるものなので怖れないが、生死のことは大きな問題で、いやしくもたかがフグの毒で死ぬことは、不名誉で士たる者のするべきことではない」というような意味でしょうか。
 なお、当時フグ食は禁止令が出ていたとされますが、明治も半ばになって解禁したのが、伊藤博文(利助)と伝えられています。

 また、松下村塾の増築工事のとき、品川弥二郎が松陰の顔に壁土を落としたため謝ると、松陰が「先生と呼ぶな、呼ぶなら師の顔に泥を塗るな」と冗談をいい皆が笑う場面が登場しましたが、これは実際、「弥二、師の顔に泥を塗るとはこのことか」と松陰がいったとも伝えられています。