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第11話「突然の恋」キーワード

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年3月19日更新

前原一誠と松陰

 前原一誠は、旧名佐世八十郎。天保5年(1834)3月、萩藩大組士佐世彦七の長男として萩市土原に生まれます。第10話の終わりに登場し、「めでからきた、前原一誠」と自己紹介しますが、「めで」は、「目出」のことで、天保年間、彦七は郡吏として厚狭郡舟木目出(現山陽小野田市)に在勤、安政4年(1857)、彦七とともに萩に出てきたときに、松下村塾を訪れた場面でしょう。史実、24歳だった一誠は10日間松下村塾で学び、父の転勤に伴い目出に戻ります。そして、翌安政5年2月、再入塾しますが、この10日間が一誠の人生を決めたといってもよいでしょう。
 他の塾生と少し違った視点で学ぶ人物としてドラマでは描かれました。弘化3年(1846)、萩で学んでいますが、翌年には目出に戻り農漁などに従事するなど、なかなか学ぶ機会を得られず、松下村塾入塾も24歳と遅かった一誠。
「わたしは歩くんが遅い、この足じゃ生涯誰にも追いつくこともできんのじゃないかと、ずっと不安でした。じゃが分かったんです、怖かったんは足のせいじゃない、どこへ歩いて行けばいいか分からなかったからなんじゃと」「先生がおられます。明かりを見つけたんなら、もう急ぐことはない、後は自分の目指すところにゆっくり近づけばいい」という一誠のセリフがありましたが、実際、一誠は17歳の時に落馬して脚にけがを負い、歩みが遅いことがコンプレックスでもあったようです。
 また、一誠は自分が愚かだと自覚していたようで、「先生の一言を聞きては乃(すなわ)ち之を守る」と、松陰の教えを忠実に守ったとされます。松陰もそんな一誠のことを信頼しており、「八十(一誠のこと)は勇あり智あり、誠実人に過ぐ」と評しています。

日本政記

 「近頃の議論はいつも、我が国が何も知らん赤子にすぎないということから始まります。ですが、我が国はまことにただの無知な赤子にすぎんのか、他国に誇るべき思想、魂はないんでしょうか」と語る一誠に、松陰が、今一度、日本国の歴史から共に学ぼうと差し出した書籍「日本政記」。10日間の滞在中、一誠は松陰と共に学んだといわれています。
 これは、頼山陽(らいさんよう、1780~1832)が著した日本通史です。1832年(天保3)、病没の直前に完成した最後の、そして代表的な著述の一つでもあります。
神武天皇から後陽成天皇までの、漢文による編年史で16巻からなり、編年の記事とその間に92編の山陽の史論からなっています。明治前期にかけてしばしば版を重ねてよく読まれ、幕末・明治の国民に広く思想的影響を与えたといわれます。
(参考 国史大事典、日本大百科全書)

女大学の講義

 松下村塾の塾生に女性がいたという形跡はありませんが、松陰の母滝が、吉田稔麿の妹の房など近所の少女を可愛がり、時には彼女たちと一緒に松陰から「女大学」や百人一首の講義を聞くこともあったといわれています。滝は女でも学問が必要だと、家事が終わると娘たちをつれて松陰の講義を聞いたといいます。ドラマでも、母滝や文、房らに「女大学」を講義しています(ドラマでは余り講義が好評ではなかったようですが)。

女大学

 江戸中期から明治時代にかけて、最も広く普及した女子教訓書。貝原益軒あるいはその妻の東軒の著とされてきたが証拠はありません。現在は益軒の「和俗童子訓」中の「女子を教ゆるの法」から主要な教条をぬき、文段の順序や文体を説教体に改め、簡略化して出版したものとされています。現存最古の版は享保14年(1729)で、その後挿絵や付録をつけるなど多くの異版が出ています。
益軒の原文が結婚前の女子教育を説いたのに対し、本書は女子教育の理念、ついで結婚後の実際生活の心得を説いています。