ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
ホーム > 組織一覧(部署名をクリックで詳細) > 広報課 > 第13話「コレラと爆弾」キーワード

第13話「コレラと爆弾」キーワード

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年4月1日更新

小野為八と地雷火

  文政12年(1829)、藩医山根文季の長男として香川津に生まれ、藩医小野家の養子となるも医業にはつかず、天保15年(1844)吉田松陰に入門して兵学を学んだという。嘉永元年(1848)長崎で高島流砲術(西洋流砲術)の免許を得た。安政2年(1855)頃には実父文季に随行し、相州(神奈川県)三浦半島の警備に赴いた。
 安政5年(1858)に松下村塾へ入門。同年末に地雷火の訓練を土原扇の芝で行いましたが、自宅謹慎となりました。この際、ドラマと同じく、幽閉の身の松陰を背負って現場に行き、実験を見学させたと伝わります。
 なお、その後藩の洋式砲術の教授となり、馬関戦争では蘭艦や米艦を砲撃、四境戦争や戊辰戦争では大砲隊を指揮しました。

コレラ(コロリ)

  ドラマ中でも猛威をふるっていた、コレラ。当時は、「虎列刺」などと字を当てたり、コロリと死んでしまうことから、「虎狼痢(ころり)」「3日コロリ」などとも呼ばれていました。
 ドラマで流行したのは、安政5年(1858)、九州から始まった流行のものだと思われますが、当時は長崎への異国船の来航で異国人がもたらした病気だと信じられていたようです。途方もない数の犠牲があり、長州でも流行したようです。なお、今回登場した小野為八の父で医者であった山根文季は、コレラで亡くなったと伝えられています。
 ドラマでは、松島剛蔵が文に「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」を手渡しました。この書物は、当時、コレラ患者にはキニーネを服用させて治療していましたが、その薬が足りないことから、適塾の緒方洪庵が対策書として書いたものです。