【第1回】 藍場川 その成り立ち



     藍場川は、18世紀の中ごろ(江戸時代中期)に開削された人工の川です。阿武川が橋本川と松本川に分流する、太鼓湾近くの川島樋の口を出発点とし、川島・橋本町・江向・平安古の4つの地区を、約2.6キロメートルにわたって縫うように流れ、平安古の石屋町で新掘川に注いで終点となります。
     6代萩藩主毛利宗広の実績を記した「遺徳談林」という史料によると、宗広が参勤交代で江戸から萩を往復する途中、備前岡山(現在、岡山市)の城下に立ち寄りました。そこでは、瀬戸内海に注ぐ吉井川から岡山城下へ、倉安川という大溝をつくり水を引き入れており、岡山城下の経済や生活にたいへん役立っていました。その当時、岡山城下と萩城下の人口はどちらも3万人くらいで、同じ規模の城下町でした。宗広は「御城下火災の節水のため、次には河上船ども自由に通過せば諸人のためにも成るべし」(「遺徳談林」)と、岡山城下の大溝は萩城下にも応用できると考えました。そこで当職の山内広通に大溝の開削を検討するように命じ、横目役鬼武久兵衛を岡山城下へつかわし調査させました。こうして、岡山城下の倉安川をモデルにして、萩の藍場川が完成したのです。
     そのころ萩城下には、すでに川島から江向あたりまで農業用水路がありました。藍場川を開削する工事は、まずこの用水路を広げ、ついで江向から平安古の石屋町まで新掘川に注ぐ溝を新しくつくりました。藍場川は江戸時代には大溝と呼ばれ、農業用水だけでなく火災のときの防火用水、さらには川舟による物資の運搬にも利用され、洪水のときには水はけの機能も果たしたことでしょう。まさに、藍場川は多目的な水路として開削されたのでした。
     藍場川の上流から下流に沿って史跡などを紹介する「藍場川さんぽ記」を新しく連載します。

    (市報はぎ1996年4月15日号掲載)