【第2回】 藍場川の源流



     藍場川の最上流部を樋の口といいます。松本川の水を藍場川に取り入れる樋門があったことから、この地名があります。現在もコンクリート製の樋門が残っていますが、閉ざされたままになっています。樋門は昭和30年(1955)中ごろまでは使用されていたといい、川漁を行う舟が出入りしていたとのことです。
     実は現在の藍場川は、椿東中津江の上水道水源地近くの一の井手堰から阿武川の水を取り入れています。ここから取り入れられた水はしばらく農業用水路に平行して中津江地区内を走り、地下に入って阿武川底に敷設された送水菅を通じて樋の口の取水口まで送られます。取水口では、阿武川の下を通って来た水がとうとうと流れ出ています。取水口の上手には、石垣を施した古い取水口の跡も残っており、藍場川に舟が通航していたころには、この取水口の中を通って樋門から出入りしていたのでしょう。
     藍場川の最上流部に設けられた樋門は、水量を調節する役割をもたされていました。そのため、川島樋の口には樋門を管理する樋番小屋が設置されていました。江戸時代後期の文化10年(1813)、この樋番小屋から出火して、川島地区の大半を焼き尽くす大火が発生しました。この年旧暦3月16日午後3時ごろ、折からの南東の強風にあおられ、武家・農家・町家など合わせて400数十軒ばかりを焼失し、真夜中の12時に至ってようやく鎮火しました。江戸時代を通じてこのかた、萩で最も大きな火災でした。川島樋の口から火が出て、御許町の周布屋敷付近で止まったので、「屁の口から屁が出てスウ止まった」と古くから言い伝えられるほど、萩の住民にとっては記憶に留め置くような大火でした。

    (市報はぎ1996年5月15日号掲載)