【第10回】 山県有朋旧宅地



     川島小橋筋を藍場川沿いに西に向かってしばらく歩くと、右手に「汲月堂址」と刻まれた石碑がたっています。ここは、松下村塾生で奇兵隊の軍艦として活躍し、後に内閣総理大臣となった山県有朋の旧宅地です。有朋は、この旧宅地の南側役150メートル離れた川島川横町で、萩藩中間山県有稔の長男として天保9年(1838)に生まれました。現在、その誕生地には、「元帥公爵山県有朋誕生地」と刻まれた大きな石碑がたっています。
     有朋は、川島川横町の誕生地から川島五反田横町に転居し、さらに嘉永と安政の交(1854年ごろ)に川島小橋筋に引っ越して来ました。有朋の父有稔は国学に造詣が深く、和歌に秀でていました。有稔は雅号を汲月庵といい、その書斎を「汲月堂」と名付けたのです。有朋は、奇兵隊に入隊する文久3年(1863)まで、多感な青年時代の約10年間をこの「汲月堂」で過ごし、松下村塾にもここから通いました。山県有朋旧宅の古写真は、明治後期に撮影されたものです。旧宅の前には藍場川が流れており、川幅は約2間(3.6メートル)ほどありました。
     また小橋筋には、「汲月堂址」の石碑から東側約150メートルの所に、林百非の旧宅地の石碑もたっています。百非は萩藩大組士で山鹿流兵学を究め、絵画にも巧みでした。吉田松陰17歳の弘化3年(1846)百非の自宅に寄寓して、兵学の指導を受けました。この時たまたま火災に遭い、藩主から賞として賜った「武経七書」のほか書籍、衣類など松陰のほとんどが焼失したということです。

    (市報はぎ1997年1月15日号掲載)