おたからノートvol.2

<萩のおたからinterview>
浜崎を謳歌する人々
ー祭りとともに生きるまちー
今回お話を伺ったのは、「御船謡」と「踊らにゃソンソン」を担う人たち。浜崎の夏を彩る、二つの祭りの裏側には、どんな人々の営みや想いがあるのでしょうか。このレポートでは、浜崎というまちの今を象徴する祭事にフォーカスを当て、文化を楽しみながら受け継いでいく人たちの姿を辿っていきます。祭りを通じてまちの輪郭を辿るうちに、あなた自身の暮らしとの思わぬ接点が見えてくるかもしれません。(萩まちじゅう博物館)
御船謡(おふなうた)
浜崎の人々にとって、まちへの誇りや愛着と深く結びついた御船謡。時代の荒波の中でも継承され続けているのは、変化を恐れず、柔軟に形を変えてきたからかもしれません。そこには、時代を超えて何かを守ることの本質が、垣間見えるような気がします。

浜崎に受け継がれる、御船謡という誇り
「めーでたーノまたのエンヨーホホンホンホンホホわーか……」
萩に古くから暮らす人なら一度は耳にしたことがある、あの独特な節回し。360年以上前、藩主の乗船の際や藩の儀礼歌として始まった御船謡は、県指定民俗文化財として、浜崎地域で大切に受け継がれてきた。だが、船に乗る人たちがどんな想いを抱いているのか。その胸の内は、案外知られていない。
「御船に乗れるのは、とても名誉のあること」そう語るのは、現在、謡長を務める武安さん。
かつて浜崎は、漁業と商業の中心地として栄えた町だった。海産物問屋の重鎮たちが邸宅を構え、全国から人や金、情報が集まっていた。
江戸時代、乗船を許されたのは特定の武家のみ。明治時代に入り、その役目が浜崎の大問屋へ託されてからも、品行方正で周囲に認められた者でなければ船に乗ることはできなかった。庶民が乗りたいと願っても、簡単に叶うものではなかったのだ。
今もなお、地謡組のメンバーが認めたものでないと乗船できない。その事実が、御船の格式高さを物語っている。
船上の席順は乗船歴で決まる。経験の浅い者は前方に座り、花形として御船の「顔」を担い、年月を重ねるにつれて、後方へと席を移していく。時代が移り変わっても作法は崩さず守り続ける。その姿には、この地域が積み重ねてきた文化を次の時代へつなごうとする、まっすぐな想いが宿っている。
法螺貝、太鼓、三味線、そして演唱が織りなす力強い音色。その響きは、今も浜崎の誇りそのものである。
厳しさの先にある景色。一番熱い萩の夏
萩の夏祭り、最終日。御船は住吉神社の御神幸祭として、萩のまちを巡行する。
そのための練習は、毎年7月の一ヶ月間を通して行われる。平日は毎晩練習に参加し、稽古の中で3回は喉を潰すほど謡い、とにかく声を出す練習を重ねる。市内約60箇所で謡い続けるための声の出し方を体に叩き込む必要があるからだ。さらに、御船謡の複雑な節回しは今日も楽譜を持たず、口伝のみで受け継がれている。
「当日が一番の練習になる」と地謡会のメンバーは口を揃える。午前11時の出発から、法螺貝は移動中も休むことなく鳴り響く。狭い船内で正座のまま、身動きも取れず謡い続ける時間は過酷そのもの。
23時30分、住吉神社に戻ると今度は「お上り」で謳う。その頃には、体力も声もギリギリの状態だ。
それでも、耳の肥えた地元の人たちの評価は厳しく、手放しで褒めてもらえるわけではない。ただ、終わってみると満足感と達成感、そしてやり切ったという感覚が残る。だからこそ、船を降りたその瞬間に「来年はもっと上手にやろう」と思うのだ。
責任感という誇りを糧に、しなやかに伝統を編み直す
過酷な練習を重ねながら、それでも御船謡を続けているのは、任された者としての圧倒的な責任感があるからだ。
御船謡は、後継者不足という課題と常に隣り合わせにある。船に乗り、謡う役割の「地謡会」のメンバーも、かつては20名ほどいたが、一時は15名にまで減少。人数が減れば、一人ひとりの負担は当然重くなる。
本来、御船謡の練習は、乗船するメンバーの自宅を順番に巡りながら行われる。約20人の大人が円になって座れる広さが必要なうえ、茶器や座布団、お茶請けなども人数分用意しなければならない。つまり、財力や家構えが求められるものだった。
しかし、現代では単身世帯や夫婦のみの世帯も多く、その条件を同じように求めるのは難しい。そこで現在は、練習場所を町内会館などへ移し、守るべき芯のために形式を柔軟に変える道を選んだ。
地謡会は、浜崎地域の住民が優先される役割だが、かつては熱意に動かされ、地域外の出身者を受け入れたこともある。現在も従来通りのスタンスを基本としていくが、特例も検討していかなくてはいけないと話す。
御船謡を継承していくこと。それ自体が、任された人たちの責任でもある。そうした思いを胸に、今も最適な形を探りながら、模索は続いている。そのひたむきな試行錯誤こそが、御船謡を未来へとつなぐのだ。

お話を伺った方
武安和孝さん
御船謡の現・謡長(ゆうちょう)で、萩市図書館の元館長。
踊らにゃソンソン
浜崎で生まれた新しい祭り。その中心にいるのは地域に暮らす若者たちです。このまちの人たちと楽しいことがしたい——その純粋な気持ちに引き寄せられるように、まちの人たちも自然と集まり、温かな応援を寄せています。誰もが自分の暮らすまちを楽しめる、そんな可能性が感じられます。

「ただただ、楽しいね」浜崎の新しい盆踊りの景色
浜崎地域の卸売市場で2024年に産声を上げた「踊らにゃソンソン」。なぜ今、この場所で盆踊りだったのか。
「みんなで同じことをして、ただただ楽しいねと言い合える時間があったらいいな、と思っていたんです」
発起人の小川さんはそう振り返る。きっかけは、YouTubeで目にした東京の盆踊りの映像だった。子どもから会社員、高齢者、さらには海外の人まで、多様な人々が入り混じって踊る光景が、強く心に残ったという。
レストラン「舸子176」のスタッフとして働く小川さんは、日々の暮らしの中で地域との繋がりを深めてきた。年配者から同世代、行政の人々まで、誰もがこの街を想い、関わってくれている。そんな幅広い世代と楽しめる時間として、盆踊りは理想の形だった。 「浜崎の人たちは、街で新しく何かを始めることに対して本当に前向き。何を手伝えばいいの?と、温かく受け入れてくれた」
企画運営には仲間が必要だと感じていた時、出会ったのが大嶋さんだった。華やかな雰囲気が場を彩ってくれる、一緒に楽しんでくれるだろうと期待して声をかけたという。
開催場所には、最初から卸売市場を選んでいた。夜の市場に灯りがともる、あの独特な雰囲気に惹かれていたからだ。
「小さな子どもからおじいちゃん、おばあちゃんまでが、ひとつの円になって踊っている。櫓の上から見たその景色は、本当に最高だった」
それは今、新しい浜崎を象徴する夏の風物詩になりつつある。
踊り続ける。その背中が景色を変えていく
盆踊りで大変なことは?と尋ねると、素直で切実な答えが返ってきた。
「踊り続けるのがしんどいんです。」
会場に人は集まるものの、自ら輪に飛び込む人は多くはなかったという。誰もがどこか気恥ずかしさを抱え、遠巻きに様子を窺ってしまっていた。
だからこそ、主催メンバーは櫓の上と下に分かれ、必死に踊り続けた。自分たちが足を止めれば、温まり始めた会場の熱も冷めてしまう。
「この役割を受け渡せたら、きっともっといろんなことができると思うんです。」
小川さんは、次の一歩を見据えている。特に、高校生や大学生にも声をかけていきたいのだという。地域の人と共に汗をかき、無心に踊る。それは、単なるイベントを超えて、浜崎という土地に新しい流れを作ることでもある。
もう一つ印象的だったのは、地域の人たちが集客を気にしてくれることだ。長年、地域の祭りを大切に育んできた浜崎の人々は、まちに誰かが訪れてくれることの尊さを誰より知っている。新しい盆踊りにも、そんな思いを重ねてくれているのかもしれない。
実際、地域の人たちの中には、運営を手伝いながら張り切ってくれる人も多い。その存在が、何よりありがたいと話してくれた。
「萩だなあ」と笑い合える、あたたかな支援に支えられて
運営費には当初、補助金を充てる予定だった。しかし、採択されなかったことを伝えると、地域の大人たちが動いた。好意で櫓を立て、広告宣伝や準備を率先して引き受けてくれたのだ。
2回目ともなると、地域の人々の動きはさらに加速した。準備の連絡をしようと思ったら、もうテーブルが手配されている。片付けの集合時間に行ったら、すでに作業が終わっている。「集合時間が終了時間なんです(笑)。本当に『萩だなあ』と思います」と小川さんと大嶋さんは敬意と愛着をにじませながら語る。
一方で、現代的なアプローチも欠かさない。Instagramではオリジナル曲のレクチャー動画を公開し、出店者も巻き込んで練習風景を発信。さらに2025年には、カウントダウンイベントを企画した。仕事のかたわら、隔週で飲食イベントを開催し、その収益を櫓代に充てる。働きながらの準備は、精神的にも肉体的にも決して楽ではない。それでも、「楽しかった」という一言がすべてを報いてくれる。
「盆踊りには正解がない。まずはふらりと、輪に入ってみる。そこから始まる景色を、一緒に楽しめたら嬉しい。」

お話を伺った方々
小川優子さん
踊らにゃソンソンの発起人。浜崎のレストラン「舸子176」で勤務。
大嶋栞奈さん
踊らにゃソンソンを運営。萩のレストラン「ホトリテイ」や「Pelori(ペロリ)」で勤務。
踊らにゃソンソン公式インスタグラム
https://www.instagram.com/odoson_hamasaki/
edit & text&photo 松田澪衣菜・吉岡風詩乃(aaiine)



