平成27年の世界遺産登録を目指して5 萩エリア・松下村塾/長崎エリア/三池エリア/八幡エリア
「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」は、平成27年6月頃に開催されるユネスコ世界遺産委員会で、世界遺産登録の可否が決定されます。
この遺産群は九州・山口を中心に8県11市に28資産あり、時代に沿った8つのエリアと萩市内の5資産を5回にわたり紹介します。
1.萩エリア
萩の産業遺産群
萩エリアは時代順に1番目のエリアで、萩城下町、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾の5つの資産で構成されます。
(5)松下村塾
工学教育論を提唱した吉田松陰の実家と塾舎
松下村塾は、吉田松陰が安政4年(1857)から5年(1858)に主宰した私塾で、椿東の松陰神社の中にあります。
吉田松陰は、天保元年(1830)、萩藩士の杉百合之助の二男として生まれました。6歳の時に、藩の兵学師範だった伯父の吉田大助が急死し、その跡を継ぎ、藩校明倫館で兵学を教えることが義務付けられ、ここから人生が大きく変わります。兵学の専門家となった松陰は、日本各地を旅し、知識と見聞を広めます。
嘉永6年(1853)、黒船来航を聞いた松陰は浦賀へ急行します。欧米の軍事力を目の当たりにし、直接自分の目で海外の実情を確かめたいと考えた松陰は、翌年、再来航した黒船に乗り込もうとしますが拒絶され、囚われの身となります。
その後、実家に幽閉された松陰は安政3年(1856)3月、教えを請いに集まってきた親類や近所の若者に対して講義を開始しました。その後も人数が増え続けたため、家族は実家の隣にある小屋を修理して、松陰に塾舎として使わせます。その後も更に人数が増えたため、10畳半の部屋を増築しています。安政5年、幕府政治を批判した松陰は、野山獄に投じられ、塾は閉鎖されました。
松陰が幽閉された幽囚室のある実家と塾舎が、松下村塾として構成資産の一つとなっています。松下村塾は、幕末に産業化に取り組み、産業文化を形成していった当時の地域社会における人材育成の施設を表しています。
松陰は海防の観点から工学教育の重要性をいち早く提唱し、工学の教育施設を設立し在来の技術者を総動員して自力で産業近代化の実現を図ろうと説きました。その教えを受け継いだ塾生らの多くが、後の日本の近代化・産業化の過程で重要な役割を担いました。
実家(国史跡 吉田松陰幽囚ノ旧宅)
正面に松陰が謹慎した幽囚室(3畳半)がある
塾舎(国史跡 松下村塾)
右側が元々あった小屋を改修したもので、
左側が増築した10畳半の部屋と玄関
6.長崎エリア
造船・石炭産業の発展形
長崎エリアは第6番目のエリアで、長崎市にあります。構成資産は、長崎造船所関係で小菅修船場跡、第三船渠、旧木型場、ジャイアント・カンチレバークレーン、占勝閣の5つ、高島炭鉱関係で高島炭坑、端島炭坑の2つ、そして旧グラバー住宅の合計8つあります。
長崎造船所は、安政4年(1857)幕府が招聘したオランダ人技師の指導で軍艦修理所「長崎鎔鉄所」として長崎港に建設され、その後明治政府によって「長崎製鉄所」「工部省長崎造船局」と名称を変え運営されました。明治20年(1887)には三菱が買い取り、三菱重工業長崎造船所は日本最大の民間造船所として発展しました。萩エリアとの関係として、松下村塾生の渡辺蒿蔵が長崎造船局の初代局長を務めたことが挙げられます。また小菅修船場跡は、現存する日本最古の洋式スリップドックで、薩摩藩とスコットランド出身の商人トーマス・グラバーによって建設され、その後三菱の所有となりました。
小菅修船場跡の日本最古(明治2年)の
スリップドック(別名そろばんドック)
高島炭鉱は、開国に伴い外国の蒸気船の燃料として高まった石炭需要を受けて、佐賀藩がグラバーとともに明治元年(1868)、長崎沖の高島に海洋炭鉱を開発したことによって始まりました。日本最初の蒸気機関を動力とした採炭が行われ、日本の炭鉱近代化の先駆けとなりました。端島炭坑(軍艦島)は高島炭坑の技術を引き継ぎ、炭鉱の島として開発されました。採炭が本格的になったのは明治中期以降で、国内外の石炭需要を賄い、明治末には八幡製鉄所へも原料炭を供給しました。最盛期には5300人が居住し、人口密度は1400人/haで東京都区部の約9倍でした。坑口等の生産施設跡や住居跡、数回にわたって拡張された海岸線を示す護岸遺構が残っています。
現在の端島炭坑(軍艦島)
7.三池エリア
石炭産業がシステムとして現存・稼働
三池エリアは時代順に第7番目のエリアで、構成資産は福岡県大牟田市と熊本県荒尾市をまたぐ地域に三池炭鉱関係で宮原坑、万田坑、専用鉄道敷、三池港があり、宇土半島(熊本県宇城市)に三角西(旧)港の5つがあります。三池炭鉱は、高島炭鉱に次いで日本で2番目に西洋の採炭技術を導入した日本最大の炭鉱で、明治から昭和初期の採炭、鉄道輸送、海運という石炭産業システムの機能を示すものとして最もよく遺構が残っています。当時は三井財閥の所有で、坑口から採炭された三池炭は専用鉄道で三池港に運ばれ、国内外に輸送されました。三池港は大型船に直接積み込むために明治41年(1908)に築港された港で、現在も重要港湾として機能しています。三角西(旧)港は、三池港が開港する前の積出港で、オランダ人技師が設計した和洋折衷の建造物が残っています。
ハミングバード(はちどり)のような三池港の景観
※大牟田市提供
8.八幡エリア
日本の製鉄業が世界のトップに
八幡エリアは時代順に第8番目のエリアで、構成資産はすべて八幡製鉄所関係のもので、福岡県北九州市に旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場があり、同県中間市に遠賀川水源地ポンプ室の4つがあります。
八幡製鉄所は、日本が産業国家として自立した明治後期の基幹産業である製鉄・鉄鋼業を代表する拠点であり、これらの資産は世界をリードする鉄鋼メーカー新日鉄住金株式会社の一部として現在も稼働している区域にあります。技術の進化によって施設の稼働を停止しているものもありますが、修繕工場は明治33年(1900)から、ポンプ室は明治43年(1910)から現在まで稼働を継続しています。
八幡製鉄所の修繕工場は明治33年
から現在まで稼働中
※新日鉄住金(株)八幡製鉄所提供