ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
ホーム > 組織一覧(部署名をクリックで詳細) > 広報課 > なるほど 花燃ゆ その4 ~ 英才の早すぎる死

なるほど 花燃ゆ その4 ~ 英才の早すぎる死

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年2月2日更新
おしえて文にゃん
 松陰没後、玄瑞は遺志を受け継ごうとして松下村塾で遺著を塾生とともに読み、また遺著の写本を製作、売って資金にする「一燈銭申合」を誓うなど、塾生の結集を図ります。
 文久元年(1861)、長井雅楽の「航海遠略」策により藩論が公武合体論に決したことに憤慨、激しい反対運動を展開します。翌年、来萩した坂本龍馬らと密談、松陰ゆずりの草莽の横断的結合などを説きます。その年、周布政之助を動かし藩論を「破約攘夷」へ転換、高杉晋作らとともに品川の英国公使館を焼き討ちするなど、攘夷の急先鋒として活躍します。
 文久3年、下関で光明寺党を結成し、関門海峡で外国船を砲撃します。つづいて京都で天皇の攘夷親征を図りますが、薩摩・会津両藩を中心とする公武合体派の画策で、萩藩は京都での地位を失い(8月18日の政変)、三条実美ら尊攘派七卿らとともに京都から追放されました。
 元治元年(1864)、失地回復を目指し尊攘派の巻き返しを図るも、来島又兵衛らの実力行使による京都入京を阻止できず、禁門の変が開戦。戦闘により負傷し、燃え盛る鷹司邸で寺島忠三郎とさし違えて自刃、享年25歳という早すぎる死でした。