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第4話「生きてつかあさい」キーワード

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年2月13日更新

黒船密航と「投夷書」

 ドラマでは、金子重之助とともに真夜中に下田の海岸から、櫓を固定する杭がなく、ふんどしで縛り付けて海にこぎ出し、黒船に上陸するも、ペリー提督には会えず、願いむなしくボートで海岸に送り返されました。伊勢谷さん演じる松陰の海外密航への熱い思いが胸を打つシーンでした。

 安政元年(1854)3月5日、松陰は金子とともに江戸を発ち、横浜で師の佐久間象山と会って、黒船密航の相談をしています(このため、象山も密航事件に連座して投獄されます)。松陰はその後、13日まで乗り込み地を探るなど策を練ります。
 14日、下田沖に黒船が停泊していると聞き、18日に下田入り、岡村屋という旅宿に宿泊します。松陰の手足に皮膚病ができ、蓮台寺村の温泉で治療(宿泊した家は現在、県史跡として「吉田松陰寄寓之址」の碑が残されています)するなどしながら、機会をうかがいます。25日には船を盗んで黒船に向かいますが波が高く諦め、柿崎弁天島弁天社で夜を明かしています。

密航の願いを書いた「投夷書」

 そして27日、柿崎海岸で漢文で書かれた「投夷書」など2通を、上陸していたアメリカ士官に手渡します。「投夷書」には、「外国渡航が禁じられているが、私たちは世界を見たてみたい。密航が知られると殺されるので、人道心で乗船させて欲しい」と松陰の思いがつづられています。なお、同時に渡したものは「別啓」といわれ、投夷書の要約に当たり、「大将が認めてくれたら、船で海岸に迎えにきてもらいたい」ということも書かれています。
なお、「別啓」には、ふりがなが振られ、松陰の直筆いわれています。このときの「投夷書」と「別啓」は、アメリカ・エール大学に保管されており、松陰の密航への熱い思いが今に残ります。
そしてその夜から、翌未明(午前2時頃)、ふんどしなどで櫓を固定した船で沖へ向かいます。最初、ミシシッピー号に乗り付けますが通訳等がおらず、再度荒波にもまれながら、ペリーがいる旗艦ポーハタン号へ乗り込みます。このとき船が流され、荷物を失います。
 船中でのやりとりは、ドラマでも演じられましたが、通訳官ウィリアムスとは筆談します。世界を周遊して勉学したいという希望は理解しながらも、日米和親条約が締結され、法を犯すことはできない、近い将来、海外への渡航が可能となるのでそれまで待つようにと説得され、結局ペリー提督とは会うことが叶いませんでした。
 28日早朝、ボートで送り返された松陰らは、その足で下田の番所に自首。江戸に護送され、約5か月間の裁判を経て、9月18日に身柄の萩藩への引き渡し、蟄居が命じられます。覚悟の上とはいえ、海外密航という重大な国禁を破った松陰らでしたが、重い処分でなく蟄居で済んだのは、ペリーが松陰らの行動に感動したこともあり、寛大な処分を幕府に求めたからとされています。
(参考 萩ものがたり「吉田松陰と旅」海原徹)

ポーハタン号

ポーハタン号 松陰と金子が、ペリー提督に会うために乗り込んだ黒船で、アメリカ艦隊の旗艦です。黒船とは、黒い外塗装(黒いタール塗り)の、西欧諸国より来航した西洋型船の総称です。中でも、嘉永六年(1853)に浦賀に来航したアメリカ東洋艦隊の4隻(フリゲート艦、うち2隻は蒸気機関)が黒船の代名詞ともなっており、「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」という狂歌も当時読まれました。

 ポーハタン号は1847年8月に起工、1852年に竣工した木造外車フリゲート艦です。長さ76.2メートル、排水量3865トン、最大速力11ノット、備砲は9門を装備。アメリカ海軍東インド艦隊(極東任地)に編入されますが、任地に向かう途中でペリー艦隊に編入。安政5年(1858)日米和親条約の調印を船上で行い、万延元年(1860)にその批准書交換のため幕府使節を乗せて、咸臨丸を随行艦として太平洋を横断しました。
なお、萩博物館にはポーハタン号の96分の1スケール模型が展示されています。

黒船を食らう?

 萩名物の一つに「蒸気(船)まんじゅう」という、蒸気船の形をした、いわゆる「回転焼き」「今川焼き」のような、小豆あんを入れた焼き菓子です。「萩の百年」によると、日露戦争のころに、岡山から来た人が商売を始めたとありますが、幕末、萩沖に出没する黒船を食べてしまえ、と誕生したという話も残っており、真偽は定かではありませんが、どちらにしても、「蒸気船まんじゅう」が懐かしい萩の味には違いありません。今でも、城下町やお祭りのときなどに買うことができますので、ぜひご賞味ください。