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第12話「戻れないふたり」キーワード

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年4月1日更新

久坂玄瑞と文の結婚

 久坂玄瑞  久坂玄瑞の才能にほれた松陰は、安政4年(1857)12月、15歳の文と18歳の玄瑞とを結婚させます。ドラマでは、結婚式の途中で文の容貌のことから賑やかになりますが、つぎのような逸話が残っています。
 明治に大津郡長や福井・小浜の両県立中学校新設に尽力した、松下村塾生の横山幾太が明治24年(1981)に書いた回顧録「鷗磻釣余鈔(おうばんちょうよしょう)」によると、松陰の意を悟った中谷正亮が、文との結婚を玄瑞に打診したところ、「夫の妹醜なる」、つまり容貌がよくないことを理由に断ったとあります。結局、玄瑞は中谷からが男児たるもの容姿で妻を選ぶのかと諭され、しぶしぶ受け入れたというのです。
 翌安政5年2月、玄瑞は約1年、自費で江戸に遊学します。そして、7月には京都に入り、梅田雲浜の元で指導を受けていますが、帰国させられ、萩の西洋学所(博習堂)の官費生として寄宿生活を始めます。そのため、文と共に暮らした期間は、わずか2か月余りという短いものでした。 

「狂夫之言」

   ドラマの最後で、「往け、久坂。事を成せ、志を遂げよ」、「ならば、僕は何を遂げる、僕の志は」、「狂う時がきたんじゃ」とつぶやきながら松陰が書いている「狂夫之言」。
 「狂夫之言」は、ペリーが結んだ日米和親条約に続き、日米修好通商条約を締結されるという状況に、何も動こうとしない藩に対する提言として松陰が書き、藩に提出したもので、世の中の思惑を逸脱する自らを「狂夫」と名乗っています。
 冒頭に書かれている、「天下の大患は、その大患たる所以を知らざるに在り。いやしくも大患の大患たる所以を知らば、寧んぞ之れが計を為さざるを得んや」は、「国家の最大の病は、自分がその病を自覚していないところにある。もし、大患の大患たる所以を知っているなら、対応策を練らないはずがないではないか」という意味でしょうか。
 内容は、藩の再編案ですが、日本という国家の存亡の危機意識を訴えており、当時の松陰の時局に対する焦りなどがよく現れているといえるのではないでしょうか。