【第14回】 藍玉座跡と舟まわし



     藍場筋に沿って西に流れる藍場川は、やがて水車筋と呼ばれる通りに行き当たり、直角に北へ流れの向きが変わる場所は、川幅が広くなっており、舟まわしと呼ばれています。通航する川舟が、方向を転換するために設けられたものです。
     舟まわしの南側、現在土塀で囲まれた一画が、かつて藍玉座があった場所です。藍玉座とは、江戸時代に、藍色の染料の元となる藍玉を製造したところです。当時の資料によると、藍玉座は、藍場とも呼ばれていたようです。
     染料の藍は、タデ科の植物である蓼藍の葉を原料としています。この蓼藍は、他の植物染料とは異なり、そのままでは染料として用いることができません。乾燥させたり水を施したりして発酵させることで、初めて染料となるのです。この発酵した蓼藍を搗き固めた物が藍玉で、それを製造する所が藍玉座なのです。
     藍玉座は、大溝が開削されて後の明和年間(1764〜71)に、藩によって開設されました。江戸時代中頃というのは、木綿の生産量が増え、綿製品が一般庶民に普及し、そして染料の藍の需用が飛躍的に伸びた時期です。萩藩では、この頃から、阿波(徳島県)産の上質な藍以外のものを輸入することを禁止し、また自由に藍玉の製造や取引を行うことを禁止しています。藍が専売制となった訳ですが、これは、後の天保一揆(1822)において、改善の要求が出されて廃止されるまで続きます。
     藍玉座は、城下町絵図によると、嘉永年間(1848〜54)までは現地に存在していたことが確認できます。それ以降の絵図には描かれていませんので、幕末には稼働を終えていたものと考えられます。藍玉座跡には、現在でも大きな井戸が残っており、往時の盛んな製造の様子が想像できます。
     原料の蓼藍は、川島・椿東・椿西地区を初めとして、阿武川上流の地域で広く栽培されたようです。資料によると、明治時代に川上村(現在の川上)から川舟で運び出した産物として、薪炭の他に、藍、棉、櫨、苧等が数えられています。かつては、藍玉座前にも多数の川舟がつながれ、物資の積み降ろしが行われたものと思われます。
    (市報はぎ1997年5月15日号掲載)