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第1話 「人むすぶ妹」キーワード

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年2月13日更新

海防臆測

海防臆測 幕末の海防策論。古賀侗庵(佐賀藩生まれ)著。二巻二冊。天保九年(1838)成稿。嘉永三年(1850)刊行。侗庵は幕府の聖堂付儒官で渡辺崋山・高野長英らの蘭学者と交わり、海外事情を研究しました。
 本書はモリソン号事件がおこった時期に執筆されたもので、幕府の撃攘政策の危険を警告し、軍船の建造と大砲の鋳造による国防の強化を説く反面、一時の権謀として開国も止むを得ないとしています。海防臆測は、ドラマでは禁書として取り扱われましたが、実際には幕府儒官の書物のため公刊(いわゆる公に出版されること)されていなかった書物です。松陰の師山田亦介が無断出版(そのため山田は処罰されています)しているため、松陰や小田村伊之助も読むことができたようです。(参考:国史大事典)

萩図書館で展示中!

 「海防臆測」を、萩図書館2階の展示ケースで平成27年12月まで展示しています。
 萩図書館所蔵のものは、塾生で松陰の死後松下村塾の指導者となった馬島甫仙の子孫から寄贈された貴重なものです。また、第1話で松陰が語った、世界情勢を学んだという「坤輿図識」(正・補版ともに一部)も併せて展示しています。なお、「坤輿図識」は、萩市電子図書館や萩市立図書館ホームページ(貴重資料アーカイブス)から全文を見ることができます。

 → 萩図書館ホームページへリンク

藩校明倫館

藩校明倫館南門 藩校明倫館は、萩藩5代藩主毛利吉元が享保4年(1719)に、毛利家家臣の子弟教育のため、萩城三の丸追廻し筋に開校、敷地は940坪でした。それから130年後の嘉永2年(1849)に、現在の江向の地に敷地1万5184坪、建物総坪数1万1328坪、練兵場3020坪の広大な規模の新明倫館として移転、藩校として教育が行われました。

 写真は、遺稿「南門」:弘化5年(1848)正月に建立された、いわゆる新明倫館の正門。本願寺山口別院に移されていたが、平成15年に旧地の旧明倫小学校敷地内へ移築されました(ドラマでも登場しました)。

 → 「萩・文ゆかりの地」(藩校明倫館)へリンク

松陰のことばの朗唱

 江向の敷地には、昭和10年に明倫小学校が建築されました(平成26年4月、明倫小学校は隣接地に移転)。藩校明倫館では吉田松陰も一時教鞭を執っており、明倫小学校では昭和56年から毎朝、各学年・学期毎に決まった松陰の遺著の一節、「松陰先生のことば」の朗唱が行われています。

 → 明倫小学校ホームページへリンク http://edu.city.hagi.lg.jp/meirin-e/

「至誠にして動かざる者 未だ之れあらざるなり」

 これは、「孟子」から採られた言葉で、真心に接して感動しない者は、いまだかつてこの世に存在しない、という意味で、松陰はこの「至誠」を信念としていました。

至誠を突き通した松陰

 松陰が江戸へ送致される際、小田村伊之助に「至誠にして動かざる者 未だ之れあらざるなり。吾(わ)れ学問二十年、齢(よわい)亦(また)而立(じりつ)なり。然(しか)れども未(いま)だ能(よ)く斯(こ)の一語を解する能(あた)はず」と送っています。松陰は、二十年も学問をしてきて、まだ「至誠にして動かざる者未だ之れあらざるなり」という言葉が本当であるか分からないといい、この言葉が果たして正しいのか実際に試してみると文章を続けています。自分の死期を悟りながらも、最後まで至誠を示すことで、人の心を動かそうとしていた様子が感じられます。

 → コラム「なるほど花燃ゆ」(松陰の「至誠」を引き継いだ素彦)へリンク