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第8話「熱血先生、誕生」キーワード

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年3月5日更新

幽囚室での講義の始まり

幽囚室 安政2年(1855)12月15日、野山獄を出た松陰は実家で幽囚の身となります。罪人の境遇だったため、自宅の一室に謹慎となり、外に出ることや人との接触も禁じられます。
12月17日から24日にかけて、父百合之助、兄梅太郎、外叔久保五郎左衛門らに孟子の講義を行います。その後、翌安政3年3月21日に再開。その際には、従弟の玉木彦介(文之進の子)や、高洲滝之允、隣家の佐々木梅三郎が受講します。その後、年末までに、梅三郎の兄の亀之助や謙蔵らが加わり、年末までに計18人。久坂玄瑞は、安政3年6月、吉田栄太郎(稔麿、近隣)と松浦亀太郎(松洞)は、11月頃の入塾です。ちなみに、高杉晋作や伊藤利助(博文)は安政4年9月となっています。

 → 「萩・文ゆかりの地」(杉家旧宅 吉田松陰幽囚ノ旧宅)へリンク

松陰と久坂の手紙の応酬

久坂玄瑞進撃像 久坂玄瑞からの手紙に、いちいち批判をしてみせ、わざと怒らせ人柄をみた松陰。
ドラマでも登場しましたが、安政3年(1856)3月、17歳の玄瑞は九州遊歴へ出かけ、熊本の宮部鼎蔵から松陰のことを聞きます。5月下旬、時局に対する考えを述べた、「義卿吉田君の案下に奉呈す」と題した手紙を、知人の儒者土屋矢之助(蕭海)を通じて届けます。幕府がアメリカに屈し開国したことを非難、アメリカ使節を斬って攘夷をするべきだ、というような苛烈な内容でした。
 これに対し、松陰は「久坂生の文を評す」と題した手紙を土屋を介して届けます(ドラマで文が届けたのはフィクションです)。そこでは、「上辺だけで思慮が浅く、至誠の中から出た言葉ではない。この種の文章も、それを書いた人も嫌いで、使節を斬るならペリー来航のときにやっておくべきだった。物事を論ずるにはその人の立場、医者なら医者の立場で何を行うべきか考える必要がある。自分は囚人なので囚人の立場で論ずる。このような問題を置いて、天下の大計などいっても意味がない」と厳しく批判します。
 この手紙を読んだ玄瑞は憤慨、6月頭に「再び吉田義卿に与ふる書」を届けますが、その内容はまたも使節を斬ることが妥当で、攘夷が大切だと主張、松陰という人物を見誤っていたと述べます。
 松陰はすぐに返事を出さず、約1か月冷却期間をおきます。そして、7月「復久坂玄瑞書」を届け、玄瑞の時勢論に「日米和親条約をすでに結び、ロシアとも和親した以上、こちらから断交すべきではなく、相手国の使節を斬ってしまえば国際的な信義に関わる。今は条約を守りながら、その間に日本がアジアを制して西洋列強に対抗すべきで」などと対抗します。
 玄瑞は再び「吉田義卿に与ふる書」で松陰に反論しますが、松陰は返書「再復玄瑞書」で、「自分はペリーを斬ろうとしたが果たせなかった。思うとおり実行して使節を斬ってもらいたい。できないのであれば、そのときは見せかけの空虚と責め立てる」と、実践を伴わない学問は無意味であるとする松陰らしい言葉で詰め寄ります。
 このように、3度に渡る手紙のやり取りの結果、幼い自分の考えに納得したのか、門下生となった玄瑞は、やがて高杉晋作とともに松陰門下の双璧と呼ばれるように成長します。
 最初、厳しく突き放した松陰でしたが、ドラマでも描かれていたように、実際は初めから玄瑞に期待していたようです。やり取りを仲介した土屋矢之助に、「久坂の志気を認めており、大成させたいので厳しく批判した。反論してきたら本望だ」などと手紙を送っています。