明治維新の光と影
■内容
内容
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1
<開国と尊王攘夷運動>…1853〜1864年
長州藩はなせ戦いの道へ歩んでいったのか?
米国使節ペリーの来航は、日本を泰平の眠りから覚ます衝撃的な事件でした。その結果、幕府は開国の道を選択し、米国ほかの欧米列強と通商条約を締結します。
  しかしこれは、朝廷の許可を得ぬものであったため、尊王攘夷運動を一気に高揚させることになりました。長州藩が、尊攘運動の急先鋒として幕府と対立し、禁門の変で「朝敵」となった経緯、また、下関で欧米列強と砲火を交えるに至った背景を、絵図や歴史資料により紹介します。
 
 
2
<幕末維新の戦乱と兵士>…1865〜1866年
―長州藩はなぜ幕府に勝てたのか、また、戦争の実態はいかなるものだったのか?
幕府は「朝敵」長州藩を征討すべく、二次にわたり朝廷から許可を得、長州藩へ大軍で攻め寄せます。一次目は、長州藩が謝罪したため戦闘に至りませんでしたが、その後、長州藩内に再び幕府に抵抗する動きが現れます。こうして二次目では、幕長戦争へ突入します。
  長州戦争は、防長両国(山口県)では四境戦争と呼ばれ、長州藩の圧勝に終わりました。長州藩の勝因、そして無名の兵士が挑んだ戦争の実態に、武器や軍装の面から迫ります。
 
 
3
<「朝敵」から「官軍」へ>…1867〜1868年
「朝敵」だった長州藩はなぜ「官軍」となりえたのか?
長州藩は八・一八政変、禁門の変を経て、幕府側に組した薩摩藩と相容れぬ仲になりました。しかし、その後薩摩藩は、謝罪した長州藩に対し、幕府が第二次長州征討を行うことに反対します。その結果薩長は同盟関係を結び、「朝敵」長州藩の復権を図ることが約束されます。
 薩長両藩は討幕に向け画策を行いますが、将軍徳川慶喜が大政奉還を行ったため、幕府を討つという名目を失います。「討幕の密勅」及び「錦の御旗」が作られた背景に迫ります。
 
 
4
<戊辰戦争と萩・会津>…1868〜1869年
萩と会津の間にいまだ忘れえぬ深い溝があるのはなぜか?
武力倒幕を目指し、「官軍」の印である「錦の御旗」を手に入れた薩長両藩は、鳥羽・伏見戦争の勝利によって中立諸藩を「官軍」側に引き入れ、西国一帯を掌握します。これに勢いを得た「官軍」は、江戸へ逃れた将軍慶喜を追討すべく、東日本へ兵を差し向けました。
  彰義隊との上野戦争後、戦場は東北、北陸各地へ移り、戊辰戦争は箱館(函館)で終結します。戊辰戦争中、苛烈を極めたという会津戦争に注目し、萩と会津の関係を考えます。
 
 
5
<日本の近代化と士族反乱>…1868〜1877年
近代日本の新しい国づくりはいかなる困難を伴ったのか?
戊辰戦争に勝利した明治新政府は、欧米列強に対抗すべく、日本の近代化に向けて急速に改革を進めます。しかし、欧米を視察した岩倉使節団の帰国後、政府内部で、内治優先を主張する使節団側と朝鮮出兵を主張する留守組側とが対立し、征韓論争が起こります。
  留守組の離脱後、政府は殖産興業政策を進める一方、秩序処分などで士族の特権を奪います。維新の勝者であるはずの佐賀・長州・薩摩に、士族反乱が起きた背景を紹介します。

出品目録はこちら出品目録
・こちらより、「明治維新の光と影」に展示する資料のリストをご覧いただけます。
・展示資料の保護のため、会期を前期と後期にわけ、一部入れ替えを行います。出品目録で、展示替えになる資料をご確認いただくことも可能です。
 前期:9月15日(月・祝)〜10月13日(月・祝)
 後期:10月14日(火)〜11月11日(火)
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