【第5回】 桂太郎旧宅地



     旧湯川家屋敷から藍場川沿いに20メートルぐらい下ると、石橋のたもとに「桂太郎旧宅」と刻まれた石碑がたっています。敷地の中には古い屋敷が現存し、藍場川の水を利用した池と庭もつくられています。庭の奥には、「公爵桂太郎誕生地」と刻まれた大きな石碑がたっていますが、実は桂太郎はここで生まれたのではありません。桂太郎は、弘化4年(1847)萩藩士桂与一右衛門の長男として平安古に生まれました。そして3才の時の嘉永2年(1849)、川島のこの地に移り住みました。
     桂は藩校明倫館に学び、戊辰戦争では奥羽地方鎮撫総督の参謀となりました。明治3年(1870)から3年間ドイツに留学し、帰国後陸軍に入り明治31年には陸軍大将に累進しました。明治34年内閣総理大臣となり、伊藤博文・井上馨の日露協商論に対立し、山県有朋の直系として日英同盟を成立させて日露戦争を遂行しました。3次にわたって組閣しましたが、大正2年(1913)67才で死去しました。拓殖大学の創立者としても知られています。
     現在の屋敷は、明治39年に桂が内閣総理大臣を辞して萩に帰省した際に、桂家の旧宅跡を買い戻し新たに屋敷を建築しようと思い立ったもので、明治42年に落成しました。その時、庭も一緒につくられました。屋敷には、当時の川島村親睦会のために揮毫した「里仁為美」の額が掲げられています。桂の郷土にたいする熱い思い入れが伝わってくるようです。桂は、幼少年期の大半を藍場川のほとりで過ごしました。自宅の前の藍場川に小舟を浮かべ、近所の子どもたちとよく舟遊びをしていたそうです。また、松本川で釣糸を垂れるのを無上の楽しみとしていたとのことです。まさに、藍場川とその周辺の自然豊かな環境の中で成長したのでした。
     阿武川が松本川と橋本川に分流する、太鼓湾の所に「御山路神社旧址碑」という大きな石碑がたっていますが、ここも桂の遊び場でした。ここには天王社という小さな神社があり、明治42年に春日神社に合祀されて荒廃していたのを、桂の賛同によって整備し石碑をたてたのです。整備が竣功したのは桂没後の大正3年で、落成式には第3次桂内閣で文部大臣をつとめた、萩出身の柴田家門が臨席して「甘棠園」と名付けました。石碑には桂の文になる天王社の由来と桂自身の追想が刻まれ、題字は山県有朋の書によるものです。

    (市報はぎ1996年8月15日号掲載)