【第6回】 川舟・石橋・ハトバ



     藍場川沿いでは、道路面よりも高く架けられた切石の石橋を見ることができます。これは、石橋の下を、荷物を積んだ川舟が通航することを考慮したものです。
     また、道路から水面に降りるハトバと呼ばれる石段も数多く見ることができます。これは、旧湯川家屋敷のところでも触れましたが、水を汲んだり、洗い物をしたり、川舟を着けて荷物の積み下ろしをするために設けられたものです。
     現在のように道路が整備されていなかった時代には、大量の物資を運搬する際に、盛んに舟が利用されていました。実際に、今から50年位前までは、藍場川でも、物資を運搬する川舟の通航が見られたそうです。高い石橋や多くのハトバの存在は、かつての藍場川の役割について、良く物語っているといえます。
     江戸時代に人口が3万人を超えていたとされる城下町萩は、当時としては有数の大都市でした。そして、町が低湿な三角州の上に開かれていたため、生活に欠かせない燃料を、大量に周辺の地域から求める必要がありました。中でも、阿武川上流の川上村(現在の萩市川上地域)などが、その主な供給地となっていたのです。
     資料によると、川上村(現在の萩市川上地域)では、多い時には百隻を越える川舟が存在していたようです。それらの川舟は、薪や炭をはじめとした様々な物資を、阿武川や藍場川に面した萩の町まで運んでいました。そして、ハトバに舟を繋いで荷物を降ろし、近所から時には遠くの町中まで、それらを売り歩いていたといいます。
     一般的には川舟の大きさは、長さが約2丈4尺(約7.27メートル)、幅が約3尺2寸(約0.97メートル)、深さが約1尺3寸(約0.4メートル)だったそうです。普通の物資で200貫目(約750キロ)、炭俵(8貫目、約30キロ)だと30俵程度積み込むことができたといいます。
     いずれにしても、藍場川は、藍場川周辺の人々だけでなく、萩の町の人々が日常生活を送る上で、大変重要な役割を果たしていたのです。

    (市報はぎ1996年9月15日号掲載)