【第7回】 善福寺



     旧湯川家屋敷から藍場川沿いにおよそ700メートルほど行くと、「指月山」と書かれた木額の掛かった山門が見えてきます。この寺が、善福寺です。善福寺は臨済宗の寺院で、最初は指月山の山麓に建立されていました。そのため、「指月山」という山号がつけられました。慶長9年(1604)毛利輝元が指月山に萩城を築くまでは、指月山には津和野の三本松城を本拠としていた吉見氏の居館がありました。天正16年(1588)吉見正頼が没すると、正頼は善福寺に葬られました。善福寺は吉見氏の菩提所としての性格を持っていたと思われます。その縁で、元和4年(1618)輝元に攻め滅ぼされた吉見広長の墓は、この寺に建てられています。輝元が指月山に居城を築くと同時に、吉見氏の居館は大井の串山に移され、善福寺も川島に移りました。
     ところで、善福寺には萩という地名が最初に現れる古文書が残っています。この古文書は「大内義隆寄進状」と呼ばれるもので、天文19年(1550)善福寺の僧侶元鹵桂本によって長門国阿武郡萩浦内に開墾された土地を大内義隆が領地として認めた旨が記されています。この翌年には義隆は陶晴賢によって討たれますから、義隆晩年の文書としても貴重なものです。
     藍場川沿いに歩いて、寺院が見られるのは善福寺のみです。藍場川の流れと、山門前の見事な臥龍の松がこの周辺の景観を引き立たせています。

    (市報はぎ1996年10月15日号掲載)