「九州・山口の近代化産業遺産群」の世界遺産暫定一覧表への記載及び世界遺産推進課の設置について
萩市を含む九州及び山口の6県11市で再提案した「九州・山口の近代化産業遺産群」が「世界遺産暫定一覧表に記載することが適当とされた文化資産」に該当することになり、9月26日、文化庁からその公表が行われました。
この九州・山口の近代化産業遺産群は、明治維新及びその後の殖産興業の大きな原動力となり、世界史的にも極めて短期間のうちに近代化を成し遂げた歴史を示す重要なものであり、このたびの決定により、顕著な普遍的価値を持つ可能性が高いとの評価がなされたものと考えます。
一方、国の調査・審議の結果において、世界遺産として国際的な評価を得るにあたっての様々な課題も提示されたことから、文化庁など関係省庁をはじめ6県11市の緊密な連携のもと、国内外の専門家の協力を得て十分な検証を積み重ねるなど、世界遺産登録への推薦準備を着実に進めてまいります。
なお、世界遺産登録を推進するため、萩市では、総合政策部に世界遺産推進課を10月1日付けで設置し、同課に専任職員として課長及び課長補佐兼係長の2名を、兼務職員として係員に関係部課職員6名を配置します。
1 評価結果について
「九州・山口の近代化産業遺産群-非西洋世界における近代化の先駆け」は、「世界遺産暫定一覧表に記載することが適当とされた文化資産」に該当
2 提案内容について
(1)提案者(6県11市)
○鹿児島県、鹿児島市
○福岡県、北九州市、大牟田市、飯塚市、田川市
○佐賀県、唐津市
○長崎県、長崎市
○熊本県、荒尾市、宇城市
○山口県、下関市、萩市
(2)提案の名称
「九州・山口の近代化産業遺産群―非西洋世界における近代化の先駆け」
(※前回提案名称:九州・山口の近代化産業遺産群~平成19年1月に継続審議となった。)
(3)提案の特徴
- 我が国の近代化は、非西洋地域で初めて、かつ極めて短時間のうちに飛躍的な発展を遂げたが、九州・山口の近代化産業遺産群がその原動力になったことを示した。
- 主に重工業に主眼を置いた提案であり、類似遺産として既に世界文化遺産国内暫定一覧表に記載されている「富岡製糸場と絹産業遺産群」は軽工業主体であることから区別が可能である。
- 日本初の本格的なシリアル・ノミネーションによる提案である。
(4)提案のコンセプト
- 九州・山口が地理的に大陸に近く、欧米列強の圧力や影響を受け、日本の近代化に向けて高いモチベーションを維持していた地域と位置付けた。
- 産業構造及び産業活動が持つ相互の関連性及び連続性を視野に入れ、4つの柱((1))自力による近代化、((2))積極的な技術導入、((3))国内外の石炭需要への対応、((4))重工業化への転換に整理した。
(5)構成資産
「日本の自力による近代化」から「積極的な技術導入」、さらに「国内外の石炭需要への対応」から「重工業化への転換」までを構成する22資産
■総資産数 22件(うち国指定13件、市指定3件、未指定6件)
●萩市の構成資産・・・萩反射炉、松下村塾、恵美須ヶ鼻造船所跡の3件
3 今後の予定について
世界遺産関係省庁連絡会議を経て、ユネスコ世界遺産委員会へ暫定一覧表を提出。推薦準備作業(顕著な普遍的価値の証明や万全の保護措置の設定など)の後、推薦書を作成し、これが整った段階で、ユネスコ世界遺産委員会へ提出(毎年2月1日締め切り)。国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の審査(現地調査を含む)を経て、ユネスコ世界遺産委員会が登録の可否を決定(翌年6月頃)。
▼産業遺産…
歴史的、技術的、社会的、建築学的、さらに科学的価値を持つ産業文化の遺産。これには建物、機械、作業場、工場、製造所、加工場、精錬所、また、エネルギーが費やされ又は運搬に利用された場所、さらに住宅や教育施設など産業に関係した社会活動の場所も含まれる。
▼シリアル・ノミネーション…
広範囲に分散する複数の遺産を一つの遺産群として世界遺産に登録する手法。
萩市の構成資産
萩反射炉
反射炉は西洋で開発された金属溶解炉である。日本へは欧米列強に対する危機感が高揚した江戸時代後期、反射炉の知識が蘭書によってもたらされ、幕府や一部の藩がその導入に取り組んだ。
それは、旧来の大砲に代わる鉄製の洋式大砲を必要としたからである。嘉永4年(1851)佐賀藩が日本で最初に反射炉を完成させ、薩摩藩・伊豆韮山(にらやま)代官所(幕府天領)・水戸藩・萩藩が続いた。
また民間でも、安心院(あじむ)(大分県)・六尾(むつお)(鳥取県)・大多羅(おおだら)(岡山県)などで反射炉が導入された。
それらのうち、反射炉の遺構が現存するのは、伊豆韮山と萩の2カ所だけであり、わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡とされている。
萩藩においては、ペリー来航後の安政年間に反射炉の導入が試みられた。
同藩は安政2年(1855)西洋学所を開設し、翌年造船所を設立して洋式軍艦の丙辰丸(へいしんまる)を建造するなど、軍備の拡充に努める。
同藩はこれら軍事力強化の一環として、反射炉の導入にも取り組んだのである。
従来、萩の反射炉は安政5年(1858)に築造されたと考えられてきたが、現在、記録で確認できるのは、安政3年(1856)の一時期に「雛形」(試験炉)が操業されたということのみである。
したがって近年では、萩藩には実用炉の存在は認められず、この反射炉は試験炉であったという見方が有力視されている。
反射炉の構造と特徴
一般的に反射炉の構造は、炉と煙突に大きくわけられる。
アーチ形の炉では、後方の燃焼室で焚たいた燃料の炎や熱を天井に反射させ、前方の溶解室に置いた金属を溶解する。
また、炉内を高温に保つ必要があるため、高い煙突を利用して空気を大量に取り込む。
これによって、鉄(Fe)に含まれた炭素(C)と酸素(O2)を結合させ、二酸化炭素(CO2)を排出し、鉄に含まれる炭素の量を減らすことが可能となる。
「硬くてもろい鉄」を「軟らかくて粘りのある鉄」に変えることが、反射炉の大きな特徴である。
恵美須ヶ鼻(えびすがはな)造船所跡
嘉永6年(1853)、幕府はペリー来航の衝撃から、各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、安政元年(1854)には萩藩に対して大船の建造を要請した。
ついで安政2 年(1855)、幕府は伊豆戸田村において西洋式帆船の君沢型(きみざわがた)を製造した。
それを受けて安政3年(1856)1月、萩藩は洋式造船技術と運転技術を学ばせるため、船大工棟梁の尾崎小右衛門(おざき こえもん)を伊豆と江戸に派遣し、4月には小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を設立した。
同年12月には最初の洋式軍艦「丙辰丸(へいしんまる)」が進水、その後さらに技術者を長崎に派遣して、オランダ人について知識を習得させ、万延元年(1860)4月には「庚申丸(こうしんまる)」を建造した。
なお、「庚申丸」建造に際しては、萩市紫福の大板山たたら(県指定史跡)の鉄が使用された。
現在も当時の規模の大きな防波堤が残る。
萩藩が初めてつくった洋式軍艦
全長約25m、排水量約50トンの木造帆船。
2本のマスト(帆柱)に対し、帆を縦に3枚張るタイプの船で、艦種としてはスクーナー、または君沢型と呼ばれる。
この船は、安政3年(1856)につくられたため、その年の干支をとって「丙辰丸」と命名された。
翌年2月、藩主 毛利敬親(たかちか)の観覧のもと、試運転が行われた。
資料出典:「丙辰丸製造沙汰控」(山口県文書館蔵)
恵美須ヶ鼻造船所の見取図
萩藩は安政3年(1856)、桂小五郎(のちの木戸孝允)の意見書などにもとづき、洋式軍艦の建造に着手した。
藩命を受けた船大工棟梁の尾崎小右衛門は、伊豆半島戸田村(静岡県沼津市)から招聘(しょうへい)された船大工とともに、萩近海を視察する。
これにより、小畑浦の恵美須ヶ鼻が造船所建設地に選ばれた。
この地で、安政3年(1856)に丙辰丸、万延元年(1860)に庚申丸と、2隻の洋式軍艦が建造された。
資料出典:小川亜弥子「幕末期長州藩洋学史の研究」(思文閣出版、1998年)
松下村塾
萩が生んだ幕末の志士 吉田松陰は、萩藩が明治維新を推進した原動力となった人材を育て、その思想形成や政治運動の理論的根拠を主唱した人物である。
ペリーが再来航した安政元年(1854)、松陰は、25歳のときに伊豆下田でアメリカ艦船に乗り込み海外渡航を企てたが、失敗に終わり投獄され、のち許されて実家に謹慎となり28歳のときに松下村塾を開いた。
松陰がこの塾で若者たちに教えた期間は、わずか1年に過ぎなかったが、塾生からは倒幕の指導的役割を果たした高杉晋作や、明治政府の初代総理大臣となった伊藤博文など日本近代国家の重職を担った多くの指導者たちを輩出した。
松下村塾のあるこの地が、明治維新胎動の地と言われる所以である。
萩市の産業遺産マップ
◆萩反射炉
松陰神社前交差点から道の駅「萩しーまーと」方面(北)へ約2km直進後、萩しーまーと道の駅交差点を左折。国道191号を萩しーまーと道の駅交差点から約300m先右側(国道191号沿い)。
◆恵美須ヶ鼻造船所跡
松陰神社前交差点から道の駅「萩しーまーと」方面(北)へ約2km直進後、萩しーまーと道の駅交差点を左折。国道191号で萩しーまーと道の駅交差点から約500m先の喫茶康安を左折後、すぐ先を右折し、突き当たりの恵比須会館を左に約150m先。