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第3回 兄妹の絆・・・妹思いの兄 松陰

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年1月29日更新

 温かく、明るい家庭で、固い絆で結ばれていた杉家の家族たち。その影響を受け、松陰と文の兄妹の情愛も深かったと思われます。

文と兄 松陰

  文と松陰とは一回りも年齢が離れていました。このため松陰は、幼い文をいつも気にかけていたようで、たとえば野山獄中からも家族に手紙を送り、様子をうかがっていました。
 文が13歳の安政2年(1855)12月、松陰は出獄を許され、杉家にて幽囚の身となります。その翌年、松陰に入門を請う者が続出し、やがて松下村塾へ発展していきました。
 前号で紹介したように、松陰の話を家族で聞いていたり、近所に住む女子たちとともに、松陰の講義を聞くこともあったということですが、松陰は女子教育にも心を配ったとされるので、おそらく文も一緒に学んでいたと思われます。
 しかし、文が松陰とともに暮らしたのはわずかな期間でした。安政5年6月、幕府が朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約に調印したことにより、松陰は幕政批判を過激化させ、同年12月、再び野山獄に投じられたからです。そして松陰は翌年、江戸に送られ二度と萩の地を踏むことはありませんでした。

松陰の文への思い

母滝に送られた松陰の手紙 杉家から萩市に寄贈された松陰の手紙は59通ありますが、その史料の中に、文を気遣う手紙があります。松陰はとにかく、いつも文のことが気がかりでならなかったことが、この手紙からもよく分かります。
 松陰が野山獄に閉じ込められていた安政2年11月、母滝に送った手紙に、「お文は定めて成人仕りたるにてこれあるべく、仕事も追々覚へ候や、間合間合に手習など精を出し候様仕り度く存じ奉り候」というくだりがあります。松陰は母に、「お文はさぞかし立派に成長したことでしょう。家事も少しはできるようになったでしょうか。合間をみて習字などに励むようにしたいものです」と、文の近況を尋ねています。この時、松陰は26歳、文は13歳でした。
 松陰自筆の手紙からは、彼の肉声が聞こえてくるようです。なお、手紙の写真を見ると、下半分の天地が逆転していますが、これは松陰が手紙を書く際、二つ折りにしたためです。

嫁ぐ文へのはなむけの言葉

 松陰が久坂玄瑞と結婚する際に文に送った一文、「文妹久坂氏に適くに贈る言」に、どんな思いで文を久坂玄瑞に嫁がせたのかという思いが説明してあります。
 その文章は、「玄瑞は萩藩内で第一級の人物であり、もちろんまた日本全国に通じる優れた才能の持ち主でもあります。今のあなたは未熟であり、彼の配偶者にふさわしくないのは明白です。しかしながら私は、人が自分からはなかなか努力しようとしないことを心配しているだけで、あなたが自ら進んで励み、努力すれば、必ずや立派になることができます」と意訳できます。妹思いの松陰の姿が目に浮かぶようです。
 松下村塾の門人である玄瑞や高杉晋作が旅に出るとき、松陰がそれぞれにはなむけの言葉を贈ったことはよく知られていますが、妹文の嫁入りに際しても、心掛けとすべきことを贈りました。人を奮い立たせることに天性の才を発揮した兄松陰に刺激されて、文もきっと発奮したのではないでしょうか。