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第6回 兄の盟友 楫取素彦と再婚

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年1月29日更新

 初代群馬県令楫取素彦の夫人、文の姉寿が明治14年(1881)に43歳で逝去します。母滝の強い勧めもあり、明治16年5月3日、41歳の文は、55歳の素彦のもとに嫁ぎます。

藩主も認めた俊英 楫取素彦

楫取素彦 素彦は、文政12年(1829)、萩城下魚棚沖町(現在の今魚店町)に、藩医松島瑞蟠の次男として生まれます。天保11年(1840)6月、12歳の時に儒者小田村吉平の養子となり、小田村伊之助と称しました。少年期から、才能や学力が周囲に認められた俊英でした。
 弘化元年(1844)9月、16歳の時に藩校明倫館へ入学、居寮生として勉学に励みます。弘化4年、養父が亡くなり、小田村家を相続、10月に明倫館の助講となります。
 嘉永3年(1850)3月から江戸で勤務しますが、嘉永4年4月に藩主の参勤に従って松陰も江戸に到着、この頃に2人の交流が始まったことが手紙等から分かっています。
 嘉永6年、萩に戻った素彦は明倫館で儒学を講じます。そして7月頃、25歳の素彦は15歳の寿と結婚します。手紙で知った松陰は、非常に喜んだと返信しています。その後の素彦は、江戸や明倫館での勤務など多忙ながらも充実した日々を過ごしていたのではないでしょうか。
 松陰が再投獄された際、松下村塾の将来を託す後継者として、素彦の名を挙げています。その期待にこたえて、素彦も明倫館の官職を削って塾での指導も行いました。しかし、越氏塾(三田尻)や山口講習堂への派遣、また藩主毛利敬親の側近として藩の外交役を担当するなど多忙となり、明倫館や松下村塾など教育の場から離れざるを得なくなりました。
 元治元年(1864)の禁門の変後の藩内抗争の際には、十一烈士たちと同じく野山獄へ投獄され、また慶応2年(1866)の第2次長州征討では広島で幕府征長軍に監禁されますが、素彦はどちらも政治情勢の急変により難を逃れます。
 慶応3年9月、藩命により楫取素彦と改名。明治元年の鳥羽伏見の戦いでは、禁中での働きにより勝利に貢献し、新政府の参与職に登用されますが、40日余りで藩主に請われ維新官僚を辞任し、藩主の側近として再び活躍することになります。

初代群馬県令として活躍

 素彦は明治9年4月、熊谷県(群馬県と埼玉県の西部)の県令に就任します。そして8月に群馬県が発足すると、初代群馬県令となります。同地は民情が荒く「難治県」として知られ、素彦も不安があったようです。
 素彦は、県庁を高崎から前橋へ移転し、群馬を日本屈指の養蚕県・教育県に育てます。特に養蚕・製糸業を奨励し、閉鎖の危機にあった富岡製糸場を官営で存続させるように尽力します。また、県令就任後、群馬県の小学校就学率が延びているなど、教育の振興にも尽しています。
 素彦は「名県令」と称えられ、県民に慕われていきます。

素彦の妻として前橋へ

 素彦は、寿が亡くなるときに着ていた衣類を洗いたくないと手紙を残すほど、寿を愛していました。また文も玄瑞を深く愛しており、素彦に嫁ぐ際に、玄瑞からの手紙(涙袖帖)を持参しています。2人のかつての伴侶は、同志と姉という近しい者同士でもありました。
 明治16年に再婚した文は前橋へ赴き、群馬県令として多忙な日々を過ごしていた素彦を支えます。