第5回 玄瑞との死別後、毛利家の奥女中へ
久坂玄瑞の死後、22歳で寡婦となった文は、養子の久米次郎(楫取素彦・寿の次男)を支え久坂家の再興に努めます。
慶応元年(1865)9月25日、文に転機が訪れます。数えで23歳という若さで毛利安子(長州藩世子毛利元徳夫人)の奥女中として毛利家の奥に入り、その後、元徳の嫡子元昭の守役となります。奥入りの際、すでに「久坂美和」と称していたことが史料で明らかになっています。
毛利家奥入り
なぜこの日に文が奥女中に登用されたのか、現時点では理由はよく分かっていません。この頃の長州藩は、文久3年(1863)、藩庁が山口に移鎮しますが、翌元治元年(18
64)、第一次長州征討などを受け、幕府への恭順派だった椋梨藤太らに政権を握られ、藩主毛利敬親は萩に戻り謹慎します。しかし、慶応元年、
高杉晋作らが椋梨ら恭順派を一掃、藩論は武備恭順、幕府に謝罪の意を示しながらも攻撃されると徹底的に抗戦するという考えに統一されました。5月、桂小五郎(木戸孝允)が政権を掌握、山口藩庁を拠点とします。このため、毛利敬親・元徳父子や夫人、子女たちは、萩から山口へ移住していました。
これらの史実から、長州藩が禁門の変に破れて朝敵となる原因を作った玄瑞の妻である、文がこの時期に毛利家に迎え入れられたとしても不思議ではありません。
なお、今のところ文がいつ元昭の守役に就いたかについては判明していませんが、文は元徳・安子夫妻に毛利家の嫡子を任せられるほど信頼されていたと思われます。
明治初年ごろの杉家周辺
万延元年(1860)、杉家は百合之助から家督を継いだ兄の梅太郎が当主となっていました。梅太郎の戸籍からこの頃の杉家には母滝、妻亀、梅太郎の次女滝子、弟敏三郎と同居していたことが分かっています。 明治9年(1876)、前原一誠や奥平謙輔らにより、萩の乱が起こります。およそ200人が明治新政府に反旗を翻したこの不平士族の反乱は、杉家にも暗い影を落とします。
この乱を首謀した前原は松陰門下です。また玉木文之進が明治に入り再興した松下村塾の多くの塾生が乱に参加するとともに、文之進の養子、正誼(乃木希典の弟、乃木家は親戚に当たる)が戦死します。この事件に責任を感じて、同年11月に文之進は玉木家の墓前で切腹しています。
楫取素彦と再婚、前橋へ
このような中、明治12年には玄瑞の遺児秀次郎が久坂家の正式な後継者となり、養子だった久米次郎は、久坂家を出て楫取家を相続し、道明と名乗ります。
姉の寿は松陰の盟友で、明治維新後に群馬県令を務める楫取素彦の夫人として活躍していました。しかし寿は、明治初年以来、病気がちとなっており、文がしばしば楫取家に出向いて姉の看病や素彦の身の回りの世話に当たっていたといわれています。しかし明治14年、妹の看病のかいなく、寿は43歳の若さで永眠します。
素彦は文に感謝しており、前橋での仕事の世話もしたようです。そして母滝の強い勧めもあり、明治16年5月3日、41歳になっていた文は、55歳の素彦のもとに嫁ぎ、前橋に移り住みます。先述の道明が楫取家を相続するなどの身辺の変化も、再婚の要因となったと思われます。