竹本橋 (たけもとばし)

■市報はぎ 平成7年(1995)1月15日号掲載



 竹本橋は、橋本川の下流、平安古町河岸端から玉江浦へ架橋されていました。別称を瓊浦橋といいました。今の常盤橋と玉江橋との、ちょうど中間あたりに架かっていたことになります。
 架橋された年代ははっきりと分かりませんが、明治34年(1901)の5万分の1の地形図には、すでに記載されています。また、大正7年(1918)の地図には描かれていませんので、明治時代から遅くとも大正中頃までは架かっていたものと思われます。
 橋は民設で、渡し賃2、3銭を徴収したといいます。長さは246間(約492メートル)あり、当時萩で最長の橋でした。そのため、川が増水すると度々破損したそうです。
 橋の平安古町側のたもとを、「竹本の鼻」といいます。ちょうど、新堀川(萩城外堀)と橋本川が合流する地点に当たります。江戸時代、この場所に萩藩お抱えの能楽師竹本家が住んでいましたので、この名がつけられたということです。他の屋敷地から少し離れていたので、能の稽古をするのに最適の地であったのかもしれません。
 橋が架かっていた南側の河畔は平安古の松原といって、写真のように昔から立派な松原がありました。この松原は、天明8年(1788)の萩城下町絵図に描かれていますので、江戸時代の終わり頃には植栽されたものと思われます。しかし、現在は松枯れのため、まるで櫛の歯が欠けたような状態になっています。樹齢200年の松の林立と、川面に映る緑陰は萩の風景の重要な構成要素となっていましたが、たいへん残念なことです。先人たちの残した遺産を植え継ぎ、萩にふさわしい景観をつくっていきたいものです。