吉見橋 (よしんばし)

■市報はぎ 平成8年(1996)1月15日号掲載



 平安古の長北医療センター前の通りを、江戸時代には吉見橋筋と呼んでいました。現在この通りは拡幅され、国道191号となっています。医療センターの横には小さな溝が流れており、江戸時代から農業用水路として利用されてきました。吉見橋筋とこの溝が交わる地点に、吉見橋という小さな橋が架かっていました。今では橋はなく、国道191号下の暗渠となっています。江戸時代の初め、この辺りに萩藩の家臣であった吉見広長の屋敷があったことから名付けられました。ちょうど医療センターの向かい側辺りに、吉見氏の屋敷があったそうです。訓みは「よしみばし」ではなくて、なまって「よしんばし」と言っていました。今はない吉見橋に、次のような悲劇が隠されています。
 吉見氏は津和野を本拠として、主に石見国西部に領地を持っていました。吉見正頼の代になると、萩の指月にも居館を築くほど勢力を伸ばしてきました。正頼は萩で没し、指月山下の善福寺に葬られました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元が防長両国に減封され萩に居城を築くことになると、指月にあった吉見氏の居館は取り壊され、善福寺も川島に移されました。正頼の子広頼と孫の広長は、大井の串山に立ち退かせられました。広長はこの措置に不満を抱き、慶長9年に出奔し江戸幕府などに仕官を求めましたが果たさず、13年後の元和3年(1617)帰国しました。輝元は広長を赦し、200石の扶持を与えて平安古に住まわせました。翌元和4年、広長は平安古の自邸に輝元を招いて中秋の宴を開こうと準備していましたが、この時広長に対して讒言があり、軍勢数百人に取り囲まれ自刃し果てたのでした。