徳冨道行橋 (とくとみみちゆきばし)

■市報はぎ 平成7年(1995)9月15日号掲載



 徳冨道行橋は、藍場川の下流平安古の石屋町筋に架かっています。長さ、幅とも3メm−トルばかりの小さな石橋です。橋の親柱には、「明治40年5月徳翁生年80歳修繕之」と刻まれています。明治40年(1907)徳冨浅次郎が80歳の時に、架橋したことが分かります。
 徳冨浅次郎は道標の設置や道路の修理、交通安全のための街灯など、萩市中の道路交通の整備に尽くしたといいます。また、各所の社寺へ額の奉納や樹木の寄進、学校・社寺・慈善団体に寄付金も施しています。唐樋の札場や金谷神社前の道標は、浅次郎が建てたものです。この石橋は浅次郎が私財を投入し、石屋町に住んでいた石工が製作したものと思われます。
 この付近一帯は石屋町と呼ばれ、藩政時代にはたくさんの石工が居住していました。最初石工たちは、萩城の外堀端の片河町で営業していましたが、通行の妨げになるということで、宝永期の初め(1700年ごろ)今の石屋町に移転したといいます。つい最近まで1軒の石屋が営業していましたが、現在では全く見られなくなりました。しかし、徳冨道行橋のそばには、藩お抱えの石工であった武林家の立派な古い屋敷が、その名残を今に伝えています。
 また、藍場川が新堀川と合流する手前の最下流には、6枚の1枚岩を渡した長さ2.5メートル、幅3.6メートルほどの豪放な石橋が架かっています。いかにも、石屋町を彷彿とさせる作りです。